武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀」や、織田信長の「人間五十年」は、戦国武将の名言としてよく知られる言葉です。
ただ、「人は城、人は石垣、人は堀」は江戸時代の軍学書『甲陽軍鑑』の言葉で、「人間五十年」も信長の辞世ではなく幸若舞『敦盛』の一節です。
戦国武将の名言は、本人の書状や同時代の記録に残る言葉と、後の時代の書物で伝えられた言葉を見分けて読むと、それぞれの武将の考え方と、のちの人々が武将に託した理想像の両方がよくわかります。
この記事では、信長・信玄・元就・光秀などの名言を出典と意味つきで紹介し、辞世の句の本当の出どころから、家康の遺訓やホトトギスの句など誤って広まった言葉まで解説します。
この記事のポイント
- 「人は城、人は石垣、人は堀」は、江戸時代の軍学書『甲陽軍鑑』の言葉
- 「人間五十年」は信長の辞世ではなく、幸若舞『敦盛』の一節
- 家康の遺訓「人の一生は重荷を負うて」は、明治時代以降に広まった言葉
- 「鳴かぬなら」のホトトギスの句は、江戸時代の随筆『甲子夜話』が出どころ
戦国武将の名言一覧
この記事で紹介する主な名言を、出典つきで一覧にします。
古代中国の戦乱の時代を舞台にした漫画では、キングダムの覚悟が伝わる名台詞を場面別に解説した記事もあります。
| 名言 | 武将 | 出典 |
|---|---|---|
| 是非に及ばず | 織田信長 | 『信長公記』 |
| 三子教訓状(兄弟の結束を説く書状) | 毛利元就 | 自筆の書状(1557年) |
| ときは今あめが下しる五月かな | 明智光秀 | 愛宕百韻(1582年) |
| 人は城、人は石垣、人は堀 | 武田信玄 | 『甲陽軍鑑』 |
| 一芸に熟達せよ | 長宗我部元親 | 『土佐物語』など |
| 人間五十年、下天の内をくらぶれば | 織田信長が好んだ一節 | 幸若舞『敦盛』 |
戦国武将の名言の見分け方
戦国武将の言葉は、どの書物に書かれているかによって、確かさが大きく変わります。
本人が書いた書状や、同じ時代の人が書いた記録に残る言葉は、本人の考えを知る手がかりとして信頼できます。
一方で、江戸時代の軍学書や、幕末から明治にかけてまとめられた『名将言行録』などの逸話集は、武将が亡くなってから長い年月がたって書かれたもので、そのまま本人の言葉とは言い切れません。
さらに、今の仕事術や自己啓発のように聞こえる言葉の中には、どの書物にも出てこないものもあります。
信長の言葉や行動を同じ時代の記録で確かめたいなら、家臣の太田牛一が書いた『信長公記』の現代語訳がおすすめです。
\ 信長の言葉を同時代の記録で /
書状や同時代の記録に残る名言
本人が書いた書状や、同じ時代の記録で確かめられる言葉は、武将の生の声に近い名言です。
是非に及ばず(織田信長)
信長に仕えた太田牛一がまとめた『信長公記』に記された言葉で、1582年の本能寺の変で、攻めてきたのが明智光秀の軍だと知った信長が口にしたとされています。
あれこれ言っても仕方がない、という意味で、逃れられない事態を受け入れる信長の覚悟を表す言葉として知られています。
三子教訓状(毛利元就)
1557年、毛利元就が3人の息子、隆元・元春・隆景に宛てて書いた自筆の書状で、兄弟が力を合わせて毛利家を守るよう、14か条にわたって説いています。
有名な「三本の矢」の話は、この書状の内容が、のちにわかりやすい逸話にまとめ直されたものと考えられています。
ときは今あめが下しる五月かな(明智光秀)
1582年、本能寺の変の直前に、光秀が愛宕山で開いた連歌の会「愛宕百韻」で詠んだ最初の句です。
土岐氏の流れをくむ光秀が、「時」に「土岐」を重ね、天下を治めるときが来たという思いを込めたと解釈されることが多い句です。
ただ、記録によって「下しる」と「下なる」の違いがあり、謀反の意図を込めた句かどうかには、さまざまな見方があります。
史料で出典をたどれる武将の言葉は、伊達政宗の名言を解説した記事でも紹介しています。
軍学書や逸話集に伝わる名言
有名な武将の名言には、江戸時代以降の書物で伝えられた言葉も多くあります。
人は城、人は石垣、人は堀(武田信玄)
江戸時代の初めにまとめられた軍学書『甲陽軍鑑』に出てくる言葉で、「情けは味方、仇は敵なり」と続きます。
城や石垣よりも、人こそが国を守る力になり、情けをかければ味方が増え、恨みを買えば敵が増える、という意味です。
『甲陽軍鑑』は信玄の死後にまとめられた書物で、信玄本人がこのとおりに語ったかは確かめられていませんが、武田家の結束を伝える言葉として今もよく引用されます。
十分の勝ちより六分七分の勝ち(武田信玄)
同じ『甲陽軍鑑』に、勝ちは六分か七分で十分だという考えとして伝わる言葉です。
完全に勝つと油断やおごりが生まれるため、ほどほどの勝ちにとどめるのがよい、という意味で、勝ったあとの戒めとして紹介されます。
信玄の言葉は、武田信玄の名言を解説した記事でくわしく紹介しています。
一芸に熟達せよ。多芸を欲張るものは巧みならず(長宗我部元親)
四国の長宗我部元親の言葉として、江戸時代の『土佐物語』や、のちの『名将言行録』に伝わる言葉です。
ひとつの技を極めよ、多くの技を欲張る者はどれも上達しない、という意味ですが、同じ時代の記録ではなく、後の時代に伝えられた言葉です。
辞世の句として伝わる言葉
武将が最期に残したとされる言葉にも、本当の出どころを知ると印象が変わるものがあります。
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり
信長の辞世の句と思われがちですが、もとは室町時代に広まった幸若舞『敦盛』の一節です(参考:コトバンク)。
『信長公記』には、1560年の桶狭間の戦いに出陣する前に、信長がこの一節を舞ったと記されています。
人の世の50年は、天上の世界の時間に比べれば夢や幻のようにはかない、という意味で、人の寿命が50年だという意味ではありません。
契りあらば六の巷にまてしばし(大谷吉継)
1600年の関ヶ原の戦いで、討ち死にを覚悟した盟友の平塚為広から届いた辞世に、大谷吉継が返した歌として伝わる句です。
縁があるなら死後の世界の辻で少し待っていてくれ、遅れても先に行っても、いずれそこで会えるのだから、という意味で、武将どうしの深い絆が伝わります。
誤って広まった戦国武将の名言
戦国武将の名言として紹介される言葉の中には、本人の言葉ではないとわかっているものもあります。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」
徳川家康の遺訓として有名ですが、家康の時代の記録には見当たらず、明治時代以降に家康の言葉として広まったものと考えられています。
水戸藩の徳川光圀の教えとされる文章をもとに作られたという説もあり、家康本人の言葉として紹介するときは注意が必要です。
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
信長・秀吉・家康の性格を表す句として知られていますが、江戸時代後期に平戸藩主の松浦静山が書いた随筆『甲子夜話』に、ある人の話として紹介されたものです。
3人の武将本人が詠んだ句ではなく、のちの人が3人の性格を見立てて作った句と考えられています。
「三本の矢」
毛利元就が臨終の床で、3人の息子に矢を束ねて見せたという話は、江戸時代以降の書物に出てくる逸話です。
元就が亡くなった1571年には、長男の隆元はすでに亡くなっていて、3人がそろって話を聞くことはできませんでした。
今の仕事術のような言葉
「部下ほど難しい存在はない」「上司の弱点を指摘してはならない」「必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ」などは、戦国武将の名言として紹介されていますが、出典となる書状や記録は見つかっていません。
「戦わずして勝つ」という考えも、もとは中国の兵法書『孫子』の言葉で、特定の武将が考えた言葉ではありません。
戦国武将の名言に関するよくある質問
「人間五十年」は信長の辞世の句ですか?
辞世の句ではなく、信長が好んで舞った幸若舞『敦盛』の一節です。
「人は城、人は石垣、人は堀」の出典は?
江戸時代の初めにまとめられた軍学書『甲陽軍鑑』です。
家康の「人の一生は重荷を負うて」は本人の言葉ですか?
家康の時代の記録には見当たらず、明治時代以降に広まった言葉と考えられています。
かっこいい戦国武将の短い名言は?
信長の「是非に及ばず」が、短く覚悟の伝わる言葉として知られています。
戦国武将の名言まとめ
戦国武将の名言は、本人の書状や同時代の記録に残る言葉と、後の時代の書物で伝えられた言葉を見分けて読むと、それぞれの武将の考え方と、のちの人々が武将に託した理想像の両方がよくわかります。
信長の「是非に及ばず」や元就の三子教訓状には、乱世を生き抜いた武将の生の声が残っています。
一方で、家康の遺訓やホトトギスの句のように、後の時代に作られて武将の名で広まった言葉もあります。
持ち帰りたい一言を選ぶなら、「人は城、人は石垣、人は堀」です。
気になった言葉は、出典の書物にあたって、その時代の背景ごと味わってみてください。