「For attractive lips, speak words of kindness.(魅力的な唇のためには、優しい言葉を話しなさい)」は、オードリー・ヘップバーンの名言として紹介されることの多い一節です。
実際には、アメリカのユーモア作家サム・レヴェンソンが1973年の著書に書いた文章で、ヘップバーンはこれを愛読し、亡くなる前の最後のクリスマスイブに家族へ読み聞かせていました。
ヘップバーン本人の考えは、新聞の取材やユニセフの活動中のインタビュー、国連でのスピーチに残る言葉からたどることができます。
ネットの定番の言葉をそのまま本人のものとせず、どこで語った言葉かを確かめると、彼女が何を大切にして生きたかがはっきり見えてきます。
この記事のポイント
- 「美しい唇」の一節はサム・レヴェンソンの文章で、ヘップバーンが愛読して家族に読んだもの
- 「愛情を与えたい」という言葉は1991年のニューヨーク・タイムズの取材で語った
- 1992年のソマリア訪問のあと、子どもへの思いを率直に語った
- 「impossible は I'm possible」は本人の言葉と確認できない
オードリー・ヘップバーンの名言一覧
この記事で紹介する、本人が語ったと記録に残る言葉を、時期と場面つきで一覧にします。
英語で語った言葉の日本語は、原文から私が訳したものです。
| 言葉 | 時期 | 場面 |
|---|---|---|
| 子どもはどんなときも、最初に保護と救済を受ける者の中に | 1989年 | 子どもの権利条約の採択時のスピーチ |
| 愛情をとても必要とし、与えたいと強く願って生まれてきた | 1991年4月 | ニューヨーク・タイムズの取材 |
| 夢はチュチュを着てコヴェント・ガーデンで踊ること | 1991年4月 | 同じ取材で少女時代を振り返って |
| 音楽は、どんなときも一番の助けになる | 1991年4月 | 同じ取材で好きな出演作を聞かれて |
| ユニセフが子どもにとってどれほど大切か、私は証言できます | 親善大使の時期 | ユニセフ公式ページに載る言葉 |
| 子どもが好きだから | 1992年10月 | ソマリア訪問後の取材 |
| ときどき、思いきり泣くんです | 1992年10月 | ナイロビでの取材 |
| 世界は優しい人でいっぱいだとわかった | 1992年10月 | 同じ取材でふつうの人にできることを聞かれて |
どの言葉も、話した相手と場面がわかると受け取り方が変わるので、次の章から背景を順に紹介します。
オードリー・ヘップバーンとは
オードリー・ヘップバーンは、1929年5月4日にベルギーのブリュッセルで生まれた女優で、父はイギリス人の銀行家、母はオランダの男爵家の出身です。
バレエを学んだあと、フランス映画の端役がきっかけで作家コレットに見いだされ、ブロードウェイの舞台『ジジ』の主役を務めました。
同じ年に、グレゴリー・ペックと共演した映画『ローマの休日』で主演し、この作品でアカデミー賞の主演女優賞を受けています。
1960年代の終わりには家庭を優先して映画からほぼ離れ、1988年からはユニセフ親善大使として世界各地の子どもたちを訪ねました(出典:UNICEF「Audrey Hepburn」)。
1992年にはがんを患いながらも活動を続け、1993年1月20日にスイスの自宅で亡くなりました。
歴史に名を残したほかの人物の言葉は、偉人の名言を出典と背景つきでまとめた記事で読むことができます。
「美しい唇」の一節はサム・レヴェンソンの文章
ヘップバーンの名言として最も広まっている「美しくなるためのヒント」は、彼女が書いたものではなく、サム・レヴェンソンの本にある文章です。
もとは娘に贈った「美しくなるヒント」
サム・レヴェンソンは、アメリカの教師出身のユーモア作家で、テレビでも人気のあった人物です。
1973年の著書『In One Era and Out the Other』の中で、娘のエミリーがデートを始めるころ、お金のかからない美しさのヒントとして次の5つを書いています。
- 唇のためには、優しい言葉を話す
- 目のためには、人の良いところを探す
- すらりとした体のためには、おなかをすかせた人と食べ物を分け合う
- 髪のためには、1日に1度、子どもに指で髪をとかしてもらう
- 身のこなしのためには、自分はひとりで歩くのではないと知って歩く
外見の美しさを、ふるまいや人とのかかわり方に置きかえて語る、ユーモア作家らしい文章です。
「2つの手」は孫娘への手紙から
「年をとるにつれて、自分には手が2つあることに気づく」という一節も、ヘップバーンの言葉として紹介されることがあります。
こちらは、レヴェンソンが初孫のジョージアが生まれたときに書いた手紙の一節で、1つは自分を助けるため、もう1つは人を助けるため、と続きます。
今ネットに出回っている「Time Tested Beauty Tips」は、娘へのヒントと孫娘への手紙という、同じ本の2か所をつなげたものです(出典:Quote Investigator「For Attractive Lips, Speak Words of Kindness」)。
ヘップバーンが家族に読み聞かせた文章
息子のショーン・ヘップバーン・ファーラーは、回想録『Audrey Hepburn: An Elegant Spirit』で、この文章をレヴェンソン作として紹介しています。
ショーンによると、母はこの文章をとても気に入っていて、最後のクリスマスイブに家族の前で一部を読み、手紙の一行から「Time-Tested Beauty Tips」と題を付けたそうです。
1993年1月の葬儀では、ショーンがこの文章を読みました。
伝記作家バリー・パリスの『Audrey Hepburn』も、亡くなる少し前に彼女が家族へこの言葉を読んだことを書き、作者はレヴェンソンとしています。
ヘップバーンが自分の言葉だと言った記録はなく、本人の名言として紹介するのは正確ではありません。
ただ、晩年の彼女が家族に伝えたいと選んだ文章だと知ると、ユニセフの活動を続けた最後の日々の思いと重ねて読むことができます。
1991年の取材で語った生き方の言葉
1991年4月、リンカーン・センター映画協会が彼女の功績をたたえる催しを開くのを前に、ヘップバーンはスイスの自宅でニューヨーク・タイムズの取材を受け、自分の人生を振り返っています。
愛情をとても必要とし、与えたいと願って生まれてきた
なぜ観客があれほど彼女に親しみを感じたのかと聞かれ、ヘップバーンは、自分にはわからないとためらいながら答えています。
そのうえで、自分がそうであってほしいと思うのは、愛情やぬくもりにかかわるものだと話し、次の言葉を続けました。
「I myself was born with an enormous need for affection and a terrible need to give it.」
愛情をとても必要とし、それを与えたいという強い思いを持って生まれてきた、という意味です(出典:The New York Times「25 Years Later, Honor for Audrey Hepburn」)。
観客は自分の中にもある「愛されたい、愛したい」という気持ちを彼女に見たのではないか、と話したあと、「感傷的に聞こえるかしら」と付け加えています。
人気の理由を自分の魅力ではなく、誰もが持つ気持ちに求めるところに、彼女の控えめな人柄が表れていると受け取れます。
チュチュを着てコヴェント・ガーデンで踊るのが夢だった
同じ取材で、ヘップバーンは何度も子ども時代の話に戻り、それが自分の生き方を説明する鍵だと語っています。
両親が別れたあとオランダに戻った彼女は、ナチス・ドイツの占領下で暮らし、戦争の終わりごろには家族でチューリップの球根を食べて生き延びたと話しています。
その時期を支えたのがダンサーになる夢で、戦後の16歳のとき、ロンドンのランバート・バレエ学校の奨学生になりました。
「夢はチュチュを着て、コヴェント・ガーデンで踊ることでした」と振り返り、背が高すぎたことと、戦争で練習が遅れたことから、かなわないと思っていたとも話しています。
映画『アンネの日記』の主演の誘いを断ったのも、オランダで自分が経験したことが日記にあまりに多く書かれていて、読み返すだけでつらかったからだと明かしています。
家族のために映画を離れたときの言葉
ヘップバーンは1966年、映画『暗くなるまで待って』の撮影中に女優の仕事をやめることを決めました。
長男のショーンが学校に通い始めたころで、「あの子はここにいて、私はあちらにいて、たまらなかった」と当時の気持ちを語っています。
子どもが学校から帰る時間に家にいたい、という選択は、仕事を持つ多くの母親が願うことだと記事は紹介しています。
それでも映画の仕事を悔やむことはなく、笑いと優しさにあふれた楽しい仕事だったと振り返っています。
つらいときに映画館で彼女の作品を見て救われた、という手紙をもらうのがうれしいと話し、ただ生計を立てるだけでない仕事の意味をそこに見ていたことがわかります。
音楽はどんなときも一番の助けになる
いちばん好きな出演作を聞かれたヘップバーンは、チョコレートケーキとスパゲッティのどちらが好きかと聞かれるようなもの、とまず笑って答えました。
そのあと静かに、音楽の仕事が好きだったので『マイ・フェア・レディ』かもしれない、と続けています。
「Music is the greatest helper in the world in all situations.」
踊りたいと思ったのも音楽が好きだったからで、音楽はどんな状況でも世界で一番の助けになる、という意味の言葉です。
こうした言葉を、ヘップバーンの生き方とあわせて日本語でゆっくり読みたいなら、作家の山口路子さんが書いた『オードリー・ヘップバーンの言葉』(大和書房・だいわ文庫)があります。
\ 生き方とあわせて言葉を読む /
ユニセフ親善大使として語った言葉
晩年のヘップバーンは、ユニセフの親善大使として飢饉や内戦に苦しむ国を訪ね、そこで見たことを自分の言葉で伝え続けました。
ユニセフが子どもにとってどれほど大切か、私は証言できます
ユニセフの公式ページには、ヘップバーンの次の言葉が紹介されています。
「I can testify to what UNICEF means to children, because I was among those who received food and medical relief after World War II.」
ユニセフが子どもにとってどれほど大切か証言できる、第二次世界大戦のあとに食べ物と医療の援助を受けた一人だから、という意味で、ユニセフの仕事にはずっと感謝と信頼を持っている、と続きます。
1988年に親善大使になってすぐに飢饉のエチオピアを訪ね、帰国後は数週間にわたってアメリカ、カナダ、ヨーロッパのメディアに、多い日は1日15件もの取材を受けて現地の様子を伝えました。
1991年のニューヨーク・タイムズの取材では、まだ力があるうちに、できるだけのことをしようと決めた、とも話しています。
子どもの権利条約の採択で訴えた言葉
1989年、国連総会で「子どもの権利条約」が採択されたとき、ヘップバーンは国連でスピーチをしています。
そこで強調したのが、「子どもはどんなときも、緊急時や災害時に、最初に保護と救済を受ける者の中にいなければならない」という言葉です(出典:UN News「Stories from the UN Archive: Audrey Hepburn on children's rights」)。
この文面は、1959年に国連総会が採択した「児童の権利に関する宣言」の原則8とほぼ同じで、彼女自身の創作というより、国際社会がすでに約束した原則を改めて訴えた言葉として読むのが正確です。
「子どもが好きだから」
1992年秋、ヘップバーンは内戦と飢饉が続くソマリアを訪ね、バイドアの給食センターを見て回りました。
その2日後、ケニアのナイロビで受けたクリスチャン・サイエンス・モニター紙の取材で、なぜこの活動をするのかと聞かれ、次のように答えています。
「It sounds so simple to say "because I love children."」
「子どもが好きだから」と言うと単純に聞こえるけれど、と前置きし、どんな形の苦しみにも耐えられない、子どもの苦しみはとくに、と続けました(出典:The Christian Science Monitor「A Visit of Compassion to Somalia」)。
同じ記事によると、親善大使としての報酬は年1ドルの名目的なものでした。
ときどき、思いきり泣くんです
ソマリアで見た光景に押しつぶされないためにどうしているのか、と報道陣に聞かれたヘップバーンは、こう答えています。
「I don't. I have a jolly good cry every so often.」
押しつぶされないようにはしていない、ときどき思いきり泣くんです、という意味です。
この活動で自分がどう変わったかと聞かれたときも、苦しみを見すぎてしまったので、家に帰ってほかのことをする時間が必要なのだと話しています。
強くあろうとするより、泣くことも休むことも自分に許していたところに、長く活動を続けられた理由があるように私は受け取りました。
世界は優しい人でいっぱいだとわかった
ふつうの人にできることは何かと聞かれたヘップバーンは、何をすべきかを人に言う必要はない、と答えています。
「the world is full, I've discovered, of kind people.」
世界は優しい人でいっぱいだとわかったから、という意味で、人は知れば手を差しのべる、足を止めているのは「知らないこと」なのだ、と続けました。
同じ取材では、本当は内気で、大勢の前でスピーチをするのはひどく怖い、とも打ち明けています。
人前に立つのが得意ではない人が、子どもたちのことを知らせるためにカメラの前に立ち続けたと知ると、この言葉の重みが増して感じられます。
苦しむ人のそばで働いた人の言葉は、マザー・テレサの名言を出典と背景つきで紹介した記事でも読むことができます。
ヘップバーンの名言と誤解されやすい言葉
ヘップバーンの名前で広まっている言葉の中には、彼女が亡くなったあとに名前が結び付けられたものもあります。
「impossible は I'm possible と言っている」
「Nothing is impossible, the word itself says 'I'm possible'!」は、ヘップバーンの言葉として特によく見かける英語の一文です。
名言の出典を調べているQuote Investigatorの運営者によると、この言い回しは1998年8月のネット掲示板の署名欄に作者の名前なしで現れ、2001年の本にも「作者不明」として載っていました。
ヘップバーンの名前が付いた例として確認できる最も古いものは、2009年3月のツイートです(出典:American Dialect Society メーリングリスト(2017年5月22日の投稿))。
本人がこの言葉を言ったり書いたりした記録は見つかっていないため、ヘップバーンの名言としては紹介できません。
「私はピンクを信じています」
「I believe in pink.」で始まり、笑うことや奇跡を信じることを並べた文章も、ヘップバーンの言葉として広く紹介されています。
ただし、本人のインタビューや著書の記録では、この文章は確認できません。
この文章には「幸せな女の子がいちばんきれい」という意味の一節も含まれていて、その部分だけがヘップバーンの名言として紹介されることもあります。
活字で確認できる早い例は2008年に出た本で、SNSのMySpaceに投稿された、身元のわからない利用者の文章として引用されていました。
同じく奇跡について語る「奇跡を信じない人は現実主義者ではない」という言葉は、1978年に出た本で、イスラエルの初代首相ベン=グリオンの言葉として紹介されています。
英語の名言は、出典の書かれていない画像や投稿から広まることが多いので、引用する前に、いつ、どの媒体で語った言葉かを確かめると安心です。
原文と出典を確かめながら英語の言葉を味わいたい方は、英語の名言を原文と出典つきで紹介した記事も参考になります。
「成功は誕生日みたいなもの」など
次の言葉も、ヘップバーンの名言として日本語のまとめ記事でよく紹介されています。
- 成功は誕生日みたいなもの、待ちに待った日が来ても自分は何も変わらない
- 愛する力は筋肉と同じで、鍛えなければ衰える
- 私にとって最高の勝利は、ありのままで生きられるようになったこと
どれも、いつ、どの取材や著書で語った言葉かを示す記録は見つかりませんでした。
「成功は誕生日」は、英語の名言集で2007年に出た写真集が出典として挙げられていますが、本人がいつ、どこで語ったかまではたどれません。
引用するときは「ヘップバーンの言葉として知られる」と書き添えるか、取材の記録が残る言葉から選ぶと安心です。
場面別に選ぶヘップバーンの言葉
ここまで紹介した本人の言葉から、今の自分の状況に合わせて持ち帰りたい言葉を選ぶ目安をまとめます。
読む人の状況ごとの選び方は、次のとおりです。
- 人との関係に疲れたとき:愛情を必要とし、与えたいと願って生まれてきたという1991年の言葉
- がんばりすぎて苦しいとき:ときどき思いきり泣く、と語った1992年の言葉
- 何かしたいのに一歩が出ないとき:人を止めているのは「知らないこと」だという1992年の言葉
- 落ち込んで何も手につかないとき:音楽はどんなときも一番の助けになるという1991年の言葉
どれも、名言として作られた言葉ではなく、記者の質問に答える中で自然に出てきた言葉です。
前後のやりとりごと読むと、飾らない話し方の中に、彼女の優しさと芯の強さの両方が見えてきます。
オードリー・ヘップバーンの名言に関するよくある質問
「美しい唇であるためには、優しい言葉を話しなさい」はオードリー・ヘップバーンの言葉ですか?
ヘップバーンの言葉ではなく、サム・レヴェンソンが1973年の著書に書いた文章です。
彼女はこの文章を愛読し、晩年に家族へ読み聞かせていました。
オードリー・ヘップバーンの名言を英語の原文で知りたいときは?
新聞の取材記事やユニセフ、国連の公式ページなど、媒体と日付がわかる記録に載っている言葉から選ぶと安心です。
ヘップバーンがユニセフの活動に力を注いだのはなぜですか?
本人は、第二次世界大戦のあとに食べ物と医療の援助を受けた一人だから、ユニセフの大切さを証言できると語っています。
スピーチや手紙で引用するときに気をつけることは?
英語の原文と、いつどこで語った言葉かを一緒に確かめ、確認できない言葉は「〇〇の言葉として広まっている」と書き添えると誤解を避けられます。
「impossible は I'm possible」は誰の言葉ですか?
作者はわかっておらず、ヘップバーンの名前が付いたのは彼女が亡くなったあとのことです。
オードリー・ヘップバーンの名言のまとめ
オードリー・ヘップバーンの名言として最も有名な「美しい唇」の一節は、サム・レヴェンソンの文章で、彼女が愛読し家族に読み聞かせたものでした。
本人の言葉は、新聞の取材やユニセフの活動の記録に残っていて、戦争を生き延びた子ども時代から、子どもたちのために世界を回った晩年までが一つにつながっています。
持ち帰りたい言葉を選ぶなら、「世界は優しい人でいっぱいだとわかった」です。
もう一つ挙げるなら、愛情を必要とし、それを与えたいと願って生まれてきた、という1991年の言葉です。
気になった言葉は、いつ、誰に向けて語ったのかまで確かめてから、大切な人に手渡してみてください。