田中角栄が1962年に大蔵大臣になったときの挨拶は、伝える人や本によって文言が少しずつ違います。
田中角栄の名言は、誰が、いつ、どの本や雑誌に記録した言葉なのかを確かめてから読むと、政治家としての評価とは切り分けて、言葉そのものを受け取ることができます。
本人の著書に残る言葉は多くなく、よく知られる言葉の多くは、秘書の回想録や雑誌のインタビュー、記者や講師の紹介を通して伝わってきたものだからです。
一方で、名言本やまとめで広まった言葉の中には、いつどこで話したのかがたどれないものも混ざっています。
この記事のポイント
- 大蔵大臣就任の挨拶は池上彰さんの講義と早坂茂三の回想録で文言が違う
- 仕事の言葉は秘書の著書や証言に、時期と場面つきで残っている
- 人付き合いの言葉は「文藝春秋」などに掲載号つきで記録されている
- 「借りた金は忘れるな」などは発言の場面を確認できない
田中角栄の名言一覧
この記事で紹介する主な言葉を、時期・場面と、その言葉を記録した人や媒体つきで一覧にします。
| 言葉 | 時期と場面 | 記録した人・媒体 |
|---|---|---|
| すべての責任はこの田中角栄が背負う | 1962年7月、大蔵大臣就任の挨拶 | 池上彰さんの講義(文春オンライン) |
| トゲの多い門松をたくさんくぐってきて | 同じ挨拶 | 早坂茂三『田中角栄回想録』(保阪正康さんの著書が引用) |
| いいからやれ。責任は俺が取る | 1965年、山一證券の救済 | 池上彰さんの講義 |
| 日中を一気にやる。鉄は熱いうちに打て | 1972年7月5日、総裁選の直後 | 早坂茂三『新・渡る世間の裏話』 |
| 大の虫を生かすために、小の虫を殺すということはできない | 1965年、大蔵大臣時代 | 「週刊文春」1965年5月10日号 |
| 政治ってのはつまり事を為すことなんだよ | 秘書に政治とは何かを問われて | 秘書・朝賀昭さんの証言 |
| 皆さん履物はわかりますか | 目白の私邸で陳情客を見送って | 「文藝春秋」1983年3月号 |
| 葬式は呼ばれなくても行ける | 葬式に出る理由を問われて | 「文藝春秋」1989年12月号 |
| 難のない馬はいないんだよ | 秘書の愚痴に答えて | 秘書・朝賀昭さんの証言 |
| おれが記者だったら、やはり書くよ | 1962年、記事を書いた早坂茂三に | 「文藝春秋」1971年9月号 |
| 俺は十年後、天下を取る | 1962年12月2日、早坂茂三を秘書に誘って | 早坂茂三『新・渡る世間の裏話』 |
| 天の運というものがある | 1970年11月、幹事長時代のインタビュー | 「文藝春秋」1974年11月号 |
| 若者は、あれでいい | 1970年安保のころ、デモについて問われて | 早坂茂三『オヤジの知恵』 |
| 精気も生命も吸いつくしてしまうんだね | 1981年、首相の職を振り返って | 「文藝春秋」1981年2月号 |
| まず水をためることが必要である | 1972年6月刊行の著書 | 『日本列島改造論』 |
この一覧のうち、本人の著書から引いた言葉は『日本列島改造論』の一節だけで、ほかは秘書・記者・講師などが記録した言葉です。
田中角栄とは
田中角栄は、1918年(大正7年)5月4日に新潟県刈羽郡二田村(現在の柏崎市)で生まれた政治家です。
高等小学校を卒業して上京し、苦学して中央工学校を卒業したあと、建設会社を興し、1947年に衆議院議員に初めて当選しました。
郵政大臣、大蔵大臣、自民党幹事長、通商産業大臣などを務めたあと、1972年7月に54歳で内閣総理大臣になり、1974年12月まで通算886日在任しました(出典:首相官邸「歴代内閣 第65代 田中角榮」)。
在任中の1972年9月に日中国交正常化を実現し、首相になる直前に出した著書『日本列島改造論』でも知られています。
首相を辞めたあとの1976年7月にロッキード事件で逮捕され、一審・二審で有罪の判決を受けましたが、上告中の1993年に亡くなり、公訴棄却となりました(出典:nippon.com「今日は何の日:7月27日」)。
政治家としての評価は人によって大きく分かれるため、以下では言葉と、その言葉を記録した資料に絞って見ていきます。
大蔵大臣就任の挨拶は資料によって文言が違う
田中角栄の名言として最もよく紹介されるのが、1962年7月、44歳で大蔵大臣に就任したときに、大蔵省の職員を前に述べた挨拶です。
同じ挨拶でも、記録した人や本によって、書き出しや締めくくりの文言が違います。
池上彰さんの講義で紹介された形
池上彰さんが文藝春秋で行った連続講義を、2019年1月に文春オンラインが記事にしたもので、挨拶は「私が田中角栄であります」で始まります(出典:文春オンライン「官僚のハートを一瞬で掴んだ田中角栄『伝説のスピーチ』とは」)。
そのあと、高等小学校卒業であることを自分から話し、大臣室の扉はいつでも開けておく、上司の許可を取る必要はない、と続きます。
締めくくりは「できることはやる。できないことはやらない」と「すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上!」です。
池上さんは、このあいさつ文が記録に残っていると話していますが、記事の中では、どの資料に残る文言なのかは示されていません。
また、同じ記事の中でも、小見出しでは「負う」、本文の引用では「背負う」と、言い回しがそろっていません。
早坂茂三『田中角栄回想録』を引いた形
ノンフィクション作家の保阪正康さんは、著書『田中角栄の昭和』(朝日文庫)で、秘書だった早坂茂三の『田中角栄回想録』からこの挨拶を引いています(出典:プレジデントオンライン「『小学校卒の叩き上げ政治家』が大蔵大臣に…」)。
こちらの書き出しは「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である」で、池上さんの紹介より短く、言い切る口調です。
続けて、自分は素人だが「トゲの多い門松をたくさんくぐってきて」いて、仕事のコツを少しは知っている、と話しています。
大臣室へは遠慮なく来てほしい、上司の諒解は要らない、という部分は、保阪さんの地の文で要約されています。
この抜粋には、「すべての責任は」にあたる一文は出てきません。
名言本で広まった「このワシが負う」の形
経済評論家の山崎元さんは、2016年2月の現代ビジネスの記事で、名言本『田中角栄の金言』(ダイアプレス)から「全ての責任はこのワシが負う」という形を引いています(出典:現代ビジネス「なぜいま、角栄ブームなのか」)。
山崎さんは、このフレーズが多くの角栄名言本で上位に紹介される人気の一節だと書いています。
3つの形を比べると
書き出しと、責任について述べた一文がどう違うかに注目して、3つの形を並べます。
| 記録した資料 | 書き出し | 責任についての一文 |
|---|---|---|
| 池上彰さんの講義(文春オンライン、2019年) | 私が田中角栄であります | すべての責任はこの田中角栄が背負う |
| 早坂茂三『田中角栄回想録』(保阪正康さんの著書が引用) | 私が田中角栄だ | 抜粋には出てこない |
| 『田中角栄の金言』(現代ビジネスの記事が引用) | 記事には引用なし | 全ての責任はこのワシが負う |
主語が「この田中角栄」か「このワシ」か、動詞が「背負う」か「負う」かで、資料ごとに形が分かれています。
就任当日の新聞や大蔵省の記録で原文を確かめることはできていないため、どれか一つを正しい文言と決めることはできません。
それでも、学歴を自分から明かし、若い職員にも大臣室の扉を開き、仕事を任せるという筋は、どの形にも共通していると受け取れます。
引用するときは、「池上彰さんの講義では」「早坂茂三の回想録では」のように、どの資料の形かを添えると正確です。
仕事への向き合い方を語る言葉
大蔵大臣や首相として仕事を進めたときの言葉は、そばにいた秘書や、講義の語り手を通して、場面つきで伝わっています。
いいからやれ。責任は俺が取る
1965年、証券不況で経営が悪化した山一證券を救うため、日本銀行による特別融資が行われたときの言葉として、池上彰さんが同じ講義で紹介しています。
前例のない対応をためらう官僚に向けて、大蔵大臣だった田中角栄がこう言って救済を進めさせた、という話です。
池上さんは、就任の挨拶が「ハッタリでも何でもなかった」ことを示す例として、この言葉を挙げています。
この言葉も、講義の中で原典の名前は示されていないため、引用するときは「池上彰さんの講義で紹介された言葉」と添えるのが正確です。
日中を一気にやる。鉄は熱いうちに打て
1972年7月5日、自民党の総裁選挙で福田赳夫に勝った直後、首相官邸の執務室で、秘書の早坂茂三に語った言葉です。
早坂は田中角栄が病に倒れるまで23年間秘書を務めた人で、その著書『新・渡る世間の裏話』に、この場面が記録されています。
このあと、自分は今がいちばん力の強いときだと話し、「厄介な問題は力が強いときに一気にやらなきゃ駄目だ」と続けています。
先延ばしにして力が弱ってからでは、できるはずがない、とも言っています。
難しい仕事ほど、勢いと力のあるうちに片づける、という考え方として読むことができます。
この年の9月29日には日中共同声明に調印し、総裁選からおよそ3か月で国交正常化が実現しました。
大の虫を生かすために、小の虫を殺すということはできない
大蔵大臣だった1965年、評論家の大宅壮一の連載「人物料理教室」で、次の総理の有力候補だと水を向けられたときの答えです(「週刊文春」1965年5月10日号)。
この言葉の前には、自分には全軍に号令をかけることは難しいかもしれない、という一言があります。
大勢のために少数を切り捨てることはできない、という意味で、トップに立つ人に求められる決断の重さを、自分の性格と照らし合わせた言葉として受け取れます。
同じ連載で、幹事長の仕事は「小刀やカミソリじゃダメ」で、ナタでなくてはいけない、とも語り、その翌月に幹事長に就任しています。
政治ってのはつまり事を為すことなんだよ
秘書の朝賀昭さんが、秘書になって10年ほどたったころ、政治とは一言で言うと何かと尋ねたときの答えです。
朝賀さんは1962年に18歳で秘書になった人で、2024年4月に公開された「選挙ドットコムちゃんねる」の動画で、この話を明かしています(出典:選挙ドットコム「事を為すことこそ政治!出来損ないを愛せ!秘書・朝賀昭氏が明かす田中角栄の政治哲学とは?」)。
田中角栄は続けて、政治家は評論家でも学者でもなく、理屈ばかりこねていてはだめだ、と話したといいます。
さらに、「名付け親から葬儀委員長まで、人の生涯に携わるのが政治」だとも語ったと、朝賀さんは振り返っています。
職業を問わず、口で説明するより、目の前の困りごとを一つずつ片づけることを仕事の中心に置く考え方として読むことができます。
仕事への向き合い方を語った言葉は、本田宗一郎の名言を仕事と挑戦の視点で紹介した記事でも読むことができます。
親、子、孫が故郷を捨てずに住めるようにするのが政治の基本
1983年7月27日、新潟県小千谷市の山あいの集落・塩谷(しおや)に通じるトンネルの落成式で、田中角栄が述べた言葉です。
60戸の集落に12億円をかけるのはおかしいという批判に対し、田中角栄は「そんなことはないっ」と言い返し、親、子、孫が故郷を捨てずに住めるようにするのが政治の基本なんだ、と語りました。
続けて、トンネルがなければ冬に病人が出ても雪道を戸板で運ぶしかない、同じ保険料を払っているのにこんな不平等があるか、とも話しています。
この場面は、ジャーナリストの松田賢弥さんが地元の人たちへの取材とあわせて「週刊現代」2016年10月29日号で伝えたものです(出典:現代ビジネス「田中角栄、最後の言葉『政治家は誰のためにいるのか』」)。
同じ年の10月12日には、ロッキード事件の一審で有罪の判決を受けています。
批判を受ける立場にあっても、地元の暮らしを政治の出発点に置いていたことが伝わる言葉として受け取れます。
人との付き合い方を語る言葉
田中角栄の人付き合いを伝える言葉は、「文藝春秋」や「週刊文春」に、証言した人と掲載号つきで数多く残っています。
文藝春秋の「本の話」は、同社の雑誌が報じた言葉から38を選び、掲載号つきで紹介しています(出典:本の話「文藝春秋が報じた角さん38の言葉」)。
皆さん履物はわかりますか
「文藝春秋」1983年3月号の読者投稿で、熊本県の町会議員が、目白の田中邸へ陳情に行ったときの体験として書いた言葉です。
話を終えて帰ろうとすると、田中角栄本人が玄関まで来て、旅館の番頭のように声をかけたといいます。
郷里から来た年配の女性を玄関まで見送ったときには、そこまでする必要があるのかと尋ねた早坂茂三を、本人が叱ったという話も残っています(「文藝春秋」1994年2月号)。
そのとき田中角栄は、あの人は郷里に帰れば「角がオラを玄関まで送って下駄を履かせてくれた」と言って歩き、それが金のかからない選挙運動になる、と答えています。
見送りが相手への礼儀であると同時に、政治家としての計算でもあったことを、本人が隠さずに話している点が印象に残ります。
葬式は呼ばれなくても行ける
新潟県議会の副議長を務めた馬場潤一郎に、なぜ葬式ばかり行くのか、秘書に任せればいいではないか、と尋ねられたときの言葉です。
このとき田中角栄は、結婚式は欠席しても後でいくらでもつきあえるが、葬式は長くお世話になった人との最後の別れだ、と答えています。
「本の話」は、この問答に続けて「結婚式は呼ばれないと行けないが、葬式は呼ばれなくても行ける」という発言も、「文藝春秋」1989年12月号の記事として紹介しています。
祝いの席より、悲しみの席に足を運ぶことを大事にした考え方として受け取れます。
難のない馬はいないんだよ
秘書の朝賀昭さんが、選挙の応援を頼んでもいい返事をくれない小沢一郎について愚痴をこぼしたときに、田中角栄が返した言葉です。
朝賀さんによると、このあと、一郎がそんなに立派だったら自分のほうが使われている、と笑いを交えて続けたといいます。
欠点のない人はいないので、欠点ごと受け止めて付き合う、という人の見方として受け取れます。
この話を紹介した選挙ドットコムの記事や動画の題には「出来損ないを愛せ」とありますが、これは番組側が付けた題で、本文に田中角栄がこの文言で話した場面は出てきません。
おれが記者だったら、やはり書くよ
1962年、自民党の政調会長だった田中角栄のオフレコ発言が新聞記事になり、国会の審議が止まる騒ぎになりました。
記事を書いたのは東京タイムズの記者だった早坂茂三で、早坂が自分が書いたと名乗り出ると、田中角栄は「おれが記者だったら、やはり書くよ」と答えたといいます(「文藝春秋」1971年9月号)。
続けて、あれは書くべきことだと言い、早坂を優秀だとほめています。
自分に不利な記事を書いた相手を、仕事ぶりで評価したこのやりとりが、その後、早坂を秘書に誘うことにつながりました。
人生と運を語る言葉
天下取りや運、総理の職の重さについて語った言葉は、話した時期と相手がはっきりしているものが多くあります。
俺は十年後、天下を取る
1962年12月2日、大蔵大臣室に呼んだ早坂茂三を秘書に誘ったときの言葉で、早坂の『新・渡る世間の裏話』に記録されています(出典:東洋経済オンライン「大ブーム『田中角栄』は何がスゴかったのか?」)。
早坂は、その年の7月に大蔵大臣になったばかりなのに今度は天下取りか、と驚いたと書いています。
そのあと田中角栄は「お互いに一生は1回だ」と言い、天下取りほどの大仕事はほかにあるか、と問いかけました。
同じ場面では、早坂の学生時代の経歴を知ったうえで「馬鹿とハサミは使いようだ」と言い、お前を使いこなすことができる、と誘っています。
「本の話」では、この言葉を「俺は十年後、天下を取る。お前は片棒を担げ」という形で、「週刊文春」1994年1月6日号から紹介していて、ここでも記録によって言い回しが少し違います。
田中角栄が首相になったのは、この10年後の1972年です。
総理総裁は、なろうと思ってなれるものではない
1970年11月、ジャーナリストの児玉隆也のインタビューで、総理の座を前にした心境を問われたときの言葉です(「文藝春秋」1974年11月号)。
大臣なら、なろうと思えば誰でもなれるが、総理総裁はそうではなく、「天の運というものがある」と話しています。
すべての準備をととのえても、選挙の前日に車にはねられることもある、とも続けていて、努力だけでは届かない部分を認めた言葉として受け取れます。
当時は2度目の自民党幹事長を務めていて、総理になるのはこの1年8か月後です。
若者は、あれでいい
1970年の日米安保条約をめぐるデモのころ、自民党本部の幹事長室からデモを見ていた外国人ジャーナリストに、あの学生たちをどう思うかと問われたときの答えです。
早坂茂三の『オヤジの知恵』(集英社、2002年)に記録されていて、田中角栄はデモの学生を「日本の将来を背負う若者たちだ」と答えています。
経験が浅く視野はせまいが、真面目に国の先行きを考えている、と続け、「若者は、あれでいい」と言っています。
さらに、社会に出て働き、所帯を持てば、物事を判断する重心が低くなるので心配していない、とも話しています。
考え方の違う若者を頭ごなしに否定せず、時間をかけて育つものとして見ていたことが伝わる言葉です。
精気も生命も吸いつくしてしまうんだね
首相を辞めたあとの1981年、ジャーナリストの田原総一朗のインタビューで語った言葉です(「文藝春秋」1981年2月号)。
池田勇人、佐藤栄作、大平正芳と、総理を務めた人が早く亡くなったことを挙げ、総理の椅子は座った人の「精気も生命も吸いつくしてしまう」と話しています。
首相を辞めたのは体調が理由だったと説明する流れの中で出た言葉で、在任中に顔面神経炎になったことも語っています。
大きな地位を得ることと、その重さに体が削られることの両方を、本人の言葉で伝えている点が印象に残ります。
こうした本人の肉声をまとめて読みたい方には、海外通信社の記者だった佐藤修さんが、13時間半のロングインタビューなどの記録をもとに書いた『田中角栄 最後のインタビュー』(文藝春秋)があります。
\ 13時間半の肉声を記録で読む /
著書『日本列島改造論』に残る言葉
秘書や記者を通さず、本人の名前で出た著書の言葉としては、1972年6月に日刊工業新聞社から出た『日本列島改造論』があります。
首相になる直前に出たこの本は91万部のベストセラーになり、2023年3月には復刻版が出ています。
都市と地方の格差を見すえ、「人と経済の流れを変える」ことをめざして、国土の姿を描き直そうとした本です。
水の利用を述べた部分では、「わが国の河川は急流が多く」、貴重な水をそのまま海へ注いでしまうと書き、「まず水をためることが必要である」と続けています(出典:文春オンライン 佐々木俊尚「『やっぱりダムは必要だ』と怒っている人に伝えたい『日本の治水と政治の関係』」)。
内閣が発足したときには「決断と実行」を政治運営の基本スローガンに掲げ、この本の構想を国民に示しました。
序文の一節としてよく引かれる言い回しもありますが、原文と照らし合わせられていないため、ここでは紹介を控えます。
田中角栄の名言として広まっているが出典がたどれない言葉
名言本やまとめで田中角栄の言葉として紹介されていても、いつ、どこで話したのかがたどれない言葉もあります。
名言本が出典になっている言葉
次の言葉は、名言本を出典として紹介されていますが、話した時期や場面は示されていません。
- 「初めに結論を言え。理由は3つまでだ」(『田中角栄の金言』ダイアプレス)
- 「人にカネを渡す時には、頭を下げて渡せ」(同)
- 「祝い事には遅れてもいい。ただし葬式には真っ先に駆けつけろ」(『田中角栄100の言葉』宝島社)
葬式についての言葉は、名言本の形より、先に紹介した「文藝春秋」1989年12月号の形のほうが、問いかけた人と場面までたどれます。
カネの渡し方の言葉は、田原総一朗さんと前野雅弥さんの共著『田中角栄がいま、首相だったら』(プレジデント社)では、秘書の早坂茂三に現金を届けさせるときに「届けるお前が土下座しろ」と言い聞かせた、という長い形で紹介されています。
ただし、この本の抜粋記事にも、いつの話か、もとになった記録が何かは書かれていません。
名言本の言葉を引用するときは、「名言本で紹介されている言葉」と添えておくと、読む人に誤解を与えません。
出典が見つからない言葉
次の言葉も田中角栄の言葉として紹介されることがありますが、本人の著書や演説、秘書や記者の回想で、該当する記述を確認できていません。
- 借りた金は忘れるな。貸した金は忘れろ
- 人間は、やっぱり出来損ないだ
- 嫌なことは自分で引き受ける
「借りた金は忘れるな」は、大下英治『田中角栄秘録』の紹介文に名言の例として挙がっていますが、そこにも話した時期や場面は書かれていません。
「出来損ない」という言葉は、朝賀昭さんの証言を紹介した記事の題に似た表現があるものの、本人がこの文言で話した記録は見つかっていません。
スピーチや文章で使うなら、出典をたどれる言葉を選ぶほうが安心です。
田中角栄の言葉を引用するときの確かめ方
田中角栄の言葉は、どんな資料に記録されたかで、確かさの度合いが変わります。
記録の種類ごとに、例と、引用するときに添えたい情報を表にまとめます。
| 記録の種類 | 例 | 引用するときに添えたい情報 |
|---|---|---|
| 本人の著書 | 『日本列島改造論』(1972年) | 書名と刊行年 |
| 雑誌のインタビュー・証言 | 「文藝春秋」「週刊文春」の各号 | 掲載誌の号と、聞き手や証言者 |
| 秘書の回想録・証言 | 早坂茂三の著書、朝賀昭さんの証言 | 誰の本・誰の話か |
| 講義や評論での紹介 | 池上彰さんの講義、保阪正康さんの著書 | 紹介した人と、その人が挙げた原典 |
| 名言本・まとめ | 『田中角栄の金言』など | 場面がたどれないことを前提に扱う |
秘書の回想録は、そばにいた人の記録である一方、何十年もあとに書かれたものもあり、言い回しは書き手の記憶を通っています。
スピーチや朝礼で使うときは、「早坂茂三の本によると」のように、誰が記録した言葉かを一言添えるだけで、聞き手に正確に伝わります。
ほかの偉人の言葉も出典から確かめたい方は、偉人の名言を出典・背景とともに紹介した記事もあわせて読んでみてください。
田中角栄の名言に関するよくある質問
「コンピューター付きブルドーザー」とは何のこと?
田中角栄の異名で、数字をよく覚える力と、強引なほどの実行力を表した呼び名です。
「今太閤」と呼ばれたのはなぜ?
54歳の若さで首相になったことと、農村出身で高等小学校卒という庶民的な経歴から、豊臣秀吉(太閤)になぞらえてそう呼ばれました。
田中角栄の言葉が多く載っている本は?
秘書だった早坂茂三の著書が、多くの「角栄本」のもとになったとされています。
首相官邸の表記が「角榮」なのはなぜ?
首相官邸の歴代内閣のページでは旧字体の「角榮」で書かれていて、一般には新字体の「角栄」が使われています。
「できることはやる。できないことはやらない」はビジネスの場で引用してもいい?
引用は自由ですが、文言が資料ごとに違うため、「池上彰さんの講義で紹介された形」など、どの資料の言い回しかを添えると誤解がありません。
田中角栄の名言のまとめ
田中角栄の名言は、本人の著書よりも、秘書の回想録や雑誌のインタビュー、講義での紹介を通して伝わってきたものが中心です。
大蔵大臣就任の挨拶のように、記録した人によって文言が変わる言葉もあるため、誰がいつ記録した形かを添えて読むと、政治家としての評価とは別に、言葉そのものを受け取れます。
持ち帰りたい言葉を選ぶなら、政治とは何かを問われて答えた「事を為すこと」と、人を欠点ごと受け止める「難のない馬はいないんだよ」です。
気になった言葉は、記録した人の本や記事で、前後の場面ごと読んでみてください。