徳川家康の名言としてよく知られるのが、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」や、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」です。
ただ、家康の名言として広まっている言葉の多くは、家康が生きていた時代の記録ではなく、江戸時代後期の随筆や明治時代以降に作られた文章、昭和の小説などがもとになっています。
徳川家康の名言は、幕府の記録や本人の遺言に残る言葉と、後の時代に家康の言葉とされた遺訓や逸話を見分けて読むと、家康の本当の考え方と、のちの人々が家康に重ねた「忍耐の人」というイメージの両方がよくわかります。
史料に残る家康の言葉には幕府の記録『徳川実紀』の「天下は一人の天下に非ず」があり、「人の一生は重荷を負うて」で始まる遺訓は明治時代に作られたとされます。
この記事のポイント
- 「天下は一人の天下に非ず」は、幕府の記録『徳川実紀』に残る言葉
- 「人の一生は重荷を負うて」で始まる遺訓は、明治時代に作られたとされる
- 「鳴くまで待とうホトトギス」は、江戸時代後期の随筆『甲子夜話』の句
- 三方ヶ原の敗戦を戒めた「しかみ像」の話は、後の時代に結びつけられた
徳川家康の名言一覧
この記事で紹介する主な家康の言葉を、出典と確かさつきで一覧にします。
| 名言 | 出典 | 確かさ |
|---|---|---|
| 天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり | 『徳川実紀』 | 幕府の記録に残る |
| 厭離穢土欣求浄土 | 家康の旗印 | 家康が掲げた言葉 |
| 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し | 『東照宮御遺訓』 | 明治時代に作られたとされる |
| 不自由を常と思えば不足なし | 『東照宮御遺訓』 | 明治時代に作られたとされる |
| 鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス | 『甲子夜話』 | 江戸時代後期の随筆の句 |
| いさめてくれる部下は一番槍より値打ちがある | 不明 | 出典が見つからない |
徳川家康とは
徳川家康は、天文11年に三河国の岡崎城で生まれた戦国武将で、幼名を竹千代といいます(参考:久能山東照宮)。
幼いころから織田家や今川家で長い人質生活を送り、1560年の桶狭間の戦いのあとに独立して、織田信長と同盟を結びました。
武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦い、本能寺の変のあとの伊賀越えなど、何度も危機を乗り越え、1600年の関ヶ原の戦いに勝って天下人となります。
1603年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開き、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼしたあと、1616年に駿府城で亡くなりました。
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記録に残る徳川家康の言葉
家康の考えを知るには、幕府の公式記録や、本人が残した遺言の内容が手がかりになります。
天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり
江戸幕府の公式記録『徳川実紀』に、家康が死の床で、2代将軍の秀忠に伝えた言葉として記されているものです。
天下は将軍一人のものではなく、天下の人々のものだ、という意味で、将軍の政治が道理にかなわず民が苦しむなら、誰であっても代わってよい、という趣旨の言葉とともに伝えられています。
ネットでは「天下は天下の人の天下にして、我一人の天下と思うべからず」という形で紹介されることもありますが、表現に違いがあります。
遺体は久能山に、一周忌のあと日光へ
1616年、家康は亡くなる前に側近の僧たちに、遺体は久能山に納め、葬儀は江戸の増上寺で、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌を過ぎたら日光山に小さな堂を建てて祀るように、と言い残しました。
名言というより具体的な指示ですが、自分が神として祀られ、死後も徳川の世を守り続けようとした家康の考えがよく表れています。
厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)
家康が旗印に掲げた言葉で、もとは仏教の教えで、汚れた世を離れて極楽浄土を願う、という意味です。
桶狭間の戦いのあと、岡崎の大樹寺で自害しようとした若き家康に、住職が、戦乱で汚れたこの世を平和な世に変えるのがあなたの役目だ、と説いたと伝えられています。
家康はこの言葉を生涯掲げ続け、戦のない世の中をつくるという願いを、天下泰平として実現しました。
辞世の句として伝わる言葉
家康の辞世の句としては、次のような歌が伝わっていますが、確かな同時代の記録で裏づけられているわけではありません。
嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空
うれしいことに、もう一度目が覚めてまた眠る、この世の夢は夜明けの空のようなものだ、という意味の歌として伝わっています。
長い戦乱を生き抜いた末に、穏やかに人生を振り返る心境が込められた歌として紹介されます。
先に行く あとに残るも 同じこと 連れて行けぬを 別れとぞ思う
先に逝く者も、あとに残る者も同じことだ、ただ一緒に連れて行けないことを別れと思う、という意味の歌です。
家臣たちが後を追って死ぬことを戒める思いが込められているとも言われます。
遺訓『東照宮御遺訓』の本当の出どころ
家康の名言として最もよく知られているのが、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」で始まる『東照宮御遺訓』です。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず
人生は重い荷物を背負って遠い道を行くようなものだから、急いではいけない、という意味で、家康の忍耐強さを表す言葉として広く知られています。
同じ遺訓には、「不自由を常と思えば不足なし」「勝つことばかり知りて、負くること知らざれば害その身に至る」「己を責めて人を責むるな」「及ばざるは過ぎたるより勝れり」といった言葉も並んでいます。
明治時代に作られたとされる理由
この遺訓は、家康の時代の記録には見当たらず、明治時代に旧幕臣の池田松之助が、水戸藩の徳川光圀の教えとされる「人のいましめ」をもとに、家康の遺訓として作ったものという研究があります。
家康の言葉ではないとしても、忍耐や反省、ほどほどをよしとする教えとして、今も多くの人に読まれ続けています。
ほかの戦国武将の名言の出どころは、戦国武将の名言を解説した記事で紹介しています。
ホトトギスの句としかみ像の逸話
家康の「忍耐の人」というイメージを支えてきた有名な話にも、後の時代に作られた部分があります。
鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス
信長の「殺してしまえ」、秀吉の「鳴かせてみよう」と並べて、家康の性格を表す句として知られています。
この句は、江戸時代後期に平戸藩主の松浦静山が書いた随筆『甲子夜話』に、ある人の話として紹介されたもので、家康本人が詠んだ句ではありません。
三方ヶ原の「しかみ像」
武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦いのあと、家康が慢心を戒めるために、やつれた自分の姿を描かせたという「しかみ像」の話はよく知られています。
しかし、この肖像画が三方ヶ原の敗戦と結びつけられたのは近代以降のことで、それを裏づける記録はないという研究が出ています。
出典が見つからない家康の名言
家康の名言として紹介される言葉の中には、どの記録にも見当たらないものもあります。
「いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある」
部下の育て方を説く言葉としてよく紹介されますが、出典となる記録は見つかっていません。
「滅びる原因は、自らの内にある」も同じく、家康が語ったことを示す記録は確かめられていません。
小説から広まった言葉
「家臣を率いる要点は惚れられることよ」「決断は難しいことではない、難しいのはその前の熟慮である」などは、昭和の歴史小説の中で家康の言葉として書かれたものが、名言として広まったとされています。
人質時代から耐えて天下を取った家康のイメージに合うため、家康の言葉として疑われずに広まりやすいと考えられます。
徳川家康の名言に関するよくある質問
「人の一生は重荷を負うて」は家康の言葉ですか?
家康の時代の記録には見当たらず、明治時代に作られた遺訓とする研究があります。
「鳴くまで待とうホトトギス」の出典は?
江戸時代後期の随筆『甲子夜話』で、家康本人が詠んだ句ではありません。
記録で確かめられる徳川家康の言葉は?
『徳川実紀』に残る「天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり」などがあります。
家康の旗印の「厭離穢土欣求浄土」とはどういう意味ですか?
戦乱で汚れたこの世を、平和な世の中に変えるという願いを込めた言葉です。
徳川家康の名言まとめ
徳川家康の名言は、幕府の記録や本人の遺言に残る言葉と、後の時代に家康の言葉とされた遺訓や逸話を見分けて読むと、家康の本当の考え方と、のちの人々が家康に重ねた「忍耐の人」というイメージの両方がよくわかります。
『徳川実紀』の「天下は天下の天下なり」や、旗印の「厭離穢土欣求浄土」には、戦乱の世を終わらせ、平和な世をつくろうとした家康の志が表れています。
一方で、遺訓やホトトギスの句、しかみ像の話のように、後の時代に作られて家康の名で広まったものもあります。
持ち帰りたい家康の言葉を選ぶなら、「天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり」です。
気になった言葉は、出典の記録や伝記にあたって、その時代の背景ごと味わってみてください。