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武田信玄の名言|『甲陽軍鑑』の原文で見る「人は城」と勝ち方の教え

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夜明けの山並みと雲海を背に紺色の旗がはためき、武田信玄の名言と題したバナー

武田信玄の名言として紹介される言葉には、史料で確かめられるもの、江戸時代の軍学書に「信玄が言った」と伝わるもの、出典の見つからないものが混ざっています。

有名な「人は城、人は石垣、人は堀」も、同時代の記録ではなく、江戸時代の初めにまとめられた『甲陽軍鑑』に出てくる言葉です。

武田信玄の名言は、『甲陽軍鑑』などの出典と、史料で確かめられる言葉か後世の伝承かまで確かめると、誤って広まった言葉と区別して意味を正しく受け取れます。

この記事では、『甲陽軍鑑』と『甲州法度之次第』の原文から確かめた言葉を品(章)や条文の番号つきで紹介し、出典の見つからない言葉もあわせて解説します。

この記事のポイント

  • 「人は城、人は石垣、人は堀」は『甲陽軍鑑』品第三十九に「信玄公の御歌」として出てくる
  • 勝ち方の教えは、原文では「六分七分の勝ちが十分の勝ち」
  • 信玄自身も法の対象とした条文が『甲州法度之次第』にある
  • 「一生懸命だと知恵が出る」は『甲陽軍鑑』にも見当たらない

武田信玄の名言一覧

この記事で紹介する言葉を、出典と史料の性格つきで一覧にします。

「史料の性格」の列を見ると、信玄の言葉と確かめられるのか、信玄が言ったと伝わる言葉なのかが分かります。

言葉(原文の一部)出典史料の性格
人は城人は石垣人は堀、情は味方讎は敵なり『甲陽軍鑑』品第三十九江戸時代の軍学書に伝わる言葉
十を六分七分の勝はこれ十分の勝なり『甲陽軍鑑』品第四十一江戸時代の軍学書に伝わる言葉
四十歳より内は勝様に、四十歳より後はまけざる様に『甲陽軍鑑』品第三十九江戸時代の軍学書に伝わる言葉
人をばつかはず、わざをつかふぞ『甲陽軍鑑』品第三十江戸時代の軍学書に伝わる言葉
国持人は猶以て渋柿にて其用所達すること多し『甲陽軍鑑』品第四十上江戸時代の軍学書に伝わる言葉
我したき事せずして、いやと思ふことを仕るならば『甲陽軍鑑』品第四十上江戸時代の軍学書に伝わる言葉
喧嘩之事、不及是非、可加成敗『甲州法度之次第』第17条信玄が定めた法
晴信於行儀其外之法度以下有旨趣相違事者、不撰貴賤、以目安可申『甲州法度之次第』第55条信玄が定めた法

『甲州法度之次第』の条文番号は、『甲陽軍鑑』品第一に収められた55か条の形によります。

武田信玄と『甲陽軍鑑』

名言の背景を知るために、まず武田信玄と、名言の多くが載る『甲陽軍鑑』について押さえておきます。

武田信玄は、1521年に生まれ1573年に亡くなった甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名で、晴信という名で知られたのち、出家して信玄と名乗りました。

越後の上杉謙信と川中島で何度も戦い、晩年には三方ヶ原の戦いで徳川家康の軍を破っています。

『甲陽軍鑑』は、信玄と勝頼に仕えた高坂弾正(春日虎綱)が書き残したものをもとに、江戸時代の初めに兵学者の小幡景憲がまとめたとされる軍学書です。

年代の誤りなどから史料としての価値を低く見られた時期もありましたが、近年の研究では武田家の実態を伝える内容も多いとして見直されています。

ただし、信玄の死後にまとめられた本なので、そこに書かれた言葉は「信玄が言ったと伝わる言葉」として読むのが正確です。

信玄の言葉や考え方を原文で通して読みたい方は、現代語訳の『甲陽軍鑑』から入ると読み進めやすくなります。

ほかの戦国武将の言葉とも見比べたい方は、戦国武将の名言をまとめた記事も参考にしてください。

「人は城、人は石垣、人は堀」の出典と意味

武田信玄の名言として最もよく知られているのが、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」です。

ここでは、原文でどう書かれているかと、その意味を紹介します。

『甲陽軍鑑』品第三十九の原文

この言葉は、『甲陽軍鑑』品第三十九に出てきます(出典:Wikisource『甲陽軍鑑』品第三十九)。

原文は「或人の云ふ信玄公御歌に人は城人は石垣人は堀、情は味方讎は敵なり」です。

「ある人が言うには、信玄公の御歌に」という形で紹介されており、『甲陽軍鑑』の中でも伝え聞いた歌として書かれている点に注意が必要です。

直前には、信玄が甲斐の国内に城を構えて守りを固めることもなく、屋敷構えで暮らしていたという話が書かれています。

「人は城」が伝える意味

城や石垣、堀のような守りよりも、人こそが国を守る力になるという意味の歌です。

続く「情けは味方、仇は敵なり」は、情けをかければ人は味方になり、恨みを買えば敵になる、という意味と受け取れます。

国の中に大きな城を築かなかった信玄の姿と結びつけて、家臣や領民との信頼を大切にした言葉として語り継がれてきました。

ただし、同時代の史料でこの歌を信玄が詠んだと確かめることはできず、あくまで江戸時代の軍学書に伝わる歌です。

『甲陽軍鑑』に伝わる信玄の言葉

『甲陽軍鑑』には、「信玄公仰らるゝ(おっしゃるには)」という形で、信玄の言葉とされるものが数多く書かれています。

ここでは、勝ち方と人の使い方についての言葉を、原文と現代語の意味つきで紹介します。

六分七分の勝ちが十分の勝ち

品第四十一で、信玄は侍大将たちに、勝ち方には3つあると教えています。

原文は「第一に十を六分七分の勝はこれ十分の勝なり、第二に十を八分九分の勝はこれあやうし、第三に十を十分の勝はかならずけが有て跡のほまれを無にすべき」です。

六分か七分の勝ちこそが十分な勝ちであり、八分九分の勝ちは危うく、完全な勝ちはかえって後の失敗を招いて、それまでの名誉を失うという意味です。

品第三十九にも、八分の勝ちは危うく、九分十分の勝ちは味方が大きく負ける下地になる、という同じ趣旨の言葉があります。

ネットでは「五分の勝ちを上とし、十分の勝ちを下とする」という形で紹介されることもありますが、『甲陽軍鑑』の原文では「六分七分の勝ち」が最もよいとされています。

四十歳より内は勝つように、四十歳より後は負けないように

同じ品第三十九には、年齢による戦い方の違いを語った言葉もあります。

原文は「弓矢の儀とり様の事、四十歳より内は勝様に、四十歳より後はまけざる様に」です。

若いうちは勝つことを目指し、40歳を過ぎたら負けないことを大切にせよ、という意味です。

続けて、大きな敵にはじっくり考えて工夫し、目先の勝ちより後の勝ちを大切にするよう説いています。

人をばつかはず、わざをつかふぞ

品第三十で、信玄は山本勘介に、自分の人の使い方をこう語っています。

原文は「いやしくも晴信、人のつかひやうは人をばつかはず、わざをつかふぞ」です。

人そのものを使うのではなく、その人が持つ技や働きを使うのだ、という意味です。

続けて、政治を行うのも技を行うことであり、悪い技がないように人を使えば心地よい、とも語っています。

好き嫌いではなく、それぞれの持つ力を見て人を用いるという考え方と受け取れます。

渋柿は渋柿として使え

「渋柿は渋柿として使え」と紹介される言葉は、品第四十上にもとになる記述があります。

原文は「渋柿をきりて木練をつぐは小身成者のことわざなり、中身よりうへの侍殊に国持人は猶以て渋柿にて其用所達すること多し」です。

「木練(こねり)」は木になったまま甘くなる柿のことで、渋柿の木を切って甘い柿を接ぎ木するのは身分の低い者のすることであり、国を治める者ほど渋柿のままで役に立つことが多い、という意味です。

扱いにくい人も、無理に作り変えず、その人のままで生かす道があると読むことができます。

ただし原文には、甘い柿の木をわざわざ切れという意味ではない、という断りも添えられています。

したいことをせず、いやだと思うことをせよ

同じ品第四十上には、夜の語らいの中で信玄が家臣たちに問いかけた話があります。

人には身分の大小によらず、身を保つためのことがひとつあると言い、家臣たちが答えられずにいると、信玄はこう語ります。

「人は只我したき事せずして、いやと思ふことを仕るならば、分々躰々全身をもつべし」

自分のしたいことばかりせず、いやだと思うことをすすんで行えば、それぞれの身分に応じて身を全うできる、という意味です。

『甲州法度之次第』に残る言葉

『甲陽軍鑑』が後にまとめられた本なのに対し、『甲州法度之次第』は信玄自身が定めた法です。

1547年(天文16年)6月に定められ、「信玄家法」とも呼ばれています。

喧嘩は理由を問わず成敗する(第17条)

第17条は「喧嘩之事、不及是非、可加成敗」で始まります。

喧嘩をした者は、理由がどうであれ処罰する、という意味で、いわゆる喧嘩両成敗の定めです。

ただし続く部分では、仕掛けられても我慢した者は罪に問わないことや、ひいきして加勢した者は同罪にすることも定めています。

晴信自身も法の対象とする(第55条)

55か条の最後に置かれた条文は、「晴信於行儀其外之法度以下有旨趣相違事者、不撰貴賤、以目安可申、依時宜可其覚悟者也」です(出典:Wikisource『甲陽軍鑑』品第一)。

晴信(信玄)自身の行いや、この法度に書いた趣旨に反することがあれば、身分を問わず目安(訴状)で申し出よ、時と場合によっては自分もその覚悟をする、という意味です。

国を治める大名が、自分自身も法の対象に含めると書き残した点で、信玄の考え方を直接知ることができる言葉です。

「風林火山」の出典と意味

武田信玄といえば「風林火山」を思い浮かべる人も多いでしょう。

ただし、この言葉は信玄が作ったものではなく、中国の兵法書『孫子』の一節です。

『孫子』軍争篇の一節

もとになったのは、『孫子』軍争篇の「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」という一節です。

速く動くときは風のように、静かに構えるときは林のように、攻めるときは火のように、動かないときは山のように、という軍の動き方を説いた言葉です。

『孫子』ではこのあとに、「知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し」という二句が続きます。

信玄の旗「孫子の旗」

信玄はこの四句を金泥で大書した紺色の旗を、軍旗として使いました。

山梨市の指定文化財になっている「孫子の旗」について、市は、信玄が孫子の兵法を重んじていたため、恵林寺の住職・快川紹喜に書かせたものと伝えられると説明しています(出典:山梨市「孫子の旗」)。

「風林火山」という四文字の呼び名は俗称で、旗そのものは「孫子の旗」と呼ばれています。

武田信玄の言葉と確かめられない名言

武田信玄の名言として広まっている言葉の中には、『甲陽軍鑑』にも『甲州法度之次第』にも見当たらないものがあります。

使う前に知っておきたい代表的な言葉を紹介します。

「一生懸命だと知恵が出る」

「一生懸命だと知恵が出る、中途半端だと愚痴が出る、いい加減だと言い訳が出る」は、武田信玄の名言として最もよく紹介される言葉のひとつです。

しかし、『甲陽軍鑑』の本文にも『甲州法度之次第』にも、この言葉は見当たりません。

職場の教訓として人気のある言葉ですが、武田信玄の言葉として紹介するのは避けたほうが安心です。

「為せば成る」

「為せば成る、為さねば成らぬ」という言葉を、武田信玄の歌として紹介する例もあります。

一般には、江戸時代の米沢藩主・上杉鷹山の言葉として知られています。

信玄が詠んだとされる形については、『甲陽軍鑑』の本文で見つけることはできませんでした。

そのほかの出典が見つからない言葉

名言サイトでよく見かける次の言葉も、『甲陽軍鑑』と『甲州法度之次第』では見つかりませんでした。

  • もう一押しこそ慎重になれ
  • 老人には経験という宝物があるのだ
  • 三度物を言って三度言葉の変わる人間は、嘘をつく人間である

気になる言葉は、出典として品(章)の番号まで示されているかを確かめてから使うと、誤った言葉を広めずにすみます。

武田信玄の名言に関するよくある質問

「人は城、人は石垣、人は堀」は本当に信玄の言葉ですか?

江戸時代の初めにまとめられた『甲陽軍鑑』に「信玄公の御歌」として出てくる言葉です。

同時代の史料では確かめられないため、信玄の歌として伝わる言葉と考えるのが正確です。

「一生懸命だと知恵が出る」は誰の言葉ですか?

武田信玄の言葉として広まっていますが、『甲陽軍鑑』などの史料には見当たりません。

誰の言葉かは確かめられていません。

風林火山は武田信玄が考えた言葉ですか?

いいえ、中国の兵法書『孫子』軍争篇の一節です。

信玄はこの四句を書いた旗を軍旗として使いました。

『甲陽軍鑑』は信用できる史料ですか?

年代の誤りもある一方で、武田家の実態を伝える内容も多いとして、近年は見直されています。

信玄の死後にまとめられた本なので、書かれた言葉は信玄が言ったと伝わる言葉として読むのが安心です。

武田信玄の名言のまとめ

武田信玄の名言は、『甲陽軍鑑』などの出典と、史料で確かめられる言葉か後世の伝承かまで確かめると、意味を正しく受け取れます。

信玄自身の考えを直接知るなら『甲州法度之次第』が、家臣たちに語った言葉を知るなら『甲陽軍鑑』が手がかりになります。

持ち帰りたい一言を選ぶなら、『甲陽軍鑑』に伝わる「六分七分の勝ちが十分の勝ち」です。

一方で、「一生懸命だと知恵が出る」のように、史料に見当たらないまま信玄の名言として広まった言葉もあります。

気になった言葉は、出典の品や条文まで確かめてから使ってください。

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Kotonoha

名言好きの個人ブロガーです。 研究者ではありませんが、ひとつの言葉について「誰が」「いつ」「どの場面で」語ったのかを確かめてから記事にしています。出典をたどれない言葉は、どれだけ有名でも「確認できない」と書きます。 アニメのセリフから偉人の言葉まで、背景ごと味わえる形でお届けします。

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