「余の辞書に不可能という文字はない」は、日本でナポレオンの言葉として最もよく知られている形です。
ところが本人の手紙に残る原文には「辞書」という語がなく、1813年7月9日に部下の将軍を叱った一文がもとになっています。
ナポレオンの名言には、書簡や布告、側近の記録で確かめられる言葉と、出典の見つからない言葉が入り混じっています。
確かめられる言葉を、書かれた日付と場面まで含めて読むと、ナポレオンが何を考えていたのかが正確に見えてきます。
この記事のポイント
- 「不可能という文字はない」の原文は1813年7月9日のルマロワ将軍宛の手紙
- 「辞書」の形はスマイルズ『自助論』の英文にあり、明治の『西国立志編』にも載った
- 布告・退位・遺言の言葉は書簡集や側近の記録で確かめられる
- 「勝利は最も忍耐強い人に」など出典の見つからない言葉もある
ナポレオンの名言一覧
この記事で紹介する、出典を確かめられた主な言葉を年代順に並べます。
「出典」の列で、本人が書いた文書か、側近が書き留めた記録かを見分けてください。
| 言葉 | 年 | 出典 |
|---|---|---|
| 兵士諸君、四十世紀が諸君を見ている | 1798年 | 本人が後年セント=ヘレナで口述した回想 |
| 兵士諸君、私は諸君に満足している | 1805年 | アウステルリッツの戦いの翌日の布告 |
| 崇高から滑稽までは一歩しかない | 1812年 | ド・プラット『ワルシャワ大使記』 |
| 「不可能です」と君は書いてくる。それはフランス的ではない | 1813年 | ルマロワ将軍宛の手紙 |
| 二十年来、私は諸君がいつも名誉と栄光の道にいるのを見てきた | 1814年 | フォンテーヌブローの別れ(ファン男爵の記録) |
| 想像力が世界を支配する | 1816年 | ラス・カーズ『セント=ヘレナ日記』 |
| 世界を動かしているのは空腹だ | 1816年 | ラス・カーズ『セント=ヘレナ日記』 |
| 才能ある者に開かれた道 | セント=ヘレナ時代 | オメーラ『Napoleon in Exile』 |
| 私の遺灰がセーヌの岸辺に眠ることを望む | 1821年 | 本人が書いた遺言 |
日本語は、フランス語や英語の原文から意味をとって訳したものです。
それぞれの言葉がどんな場面で語られたかは、このあと順に紹介します。
ナポレオンとはどんな人物か
言葉の背景を読むために、ナポレオンの生涯を短く確かめておきます。
ナポレオン・ボナパルトは、1769年8月15日にコルシカ島のアジャクシオで生まれたフランスの軍人・政治家です(出典:Fondation Napoléon「Biographie de Napoléon Bonaparte」)。
1804年に皇帝となり、同じ年の12月2日に、歴代の王が戴冠したランスではなくパリで戴冠しています。
同じ1804年の3月21日には民法典(のちのナポレオン法典)が公布され、その内容の多くは今もフランスで効力を持っています(出典:Fondation Napoléon「La promulgation du Code civil des Français」)。
一方で、ナポレオンの時代のヨーロッパでは戦争が続き、各地で多くの兵士や住民が命を落としました。
1812年のロシア遠征で大軍を失い、1814年に退位してエルバ島へ移ったあと、1815年に一度は皇帝に戻りましたが、6月18日のワーテルローの戦いで敗れています(出典:Larousse「bataille de Waterloo」)。
2度目の退位のあとは南大西洋のセント=ヘレナ島に送られ、1821年5月5日にその島で亡くなりました。
この記事では、ナポレオンの言葉を、戦争や征服をたたえるためではなく、本人の考え方を知るための歴史の記録として紹介します。
同じように時代を動かした人物の言葉を読み比べたい方は、歴史上の人物の名言を集めた記事もあわせて読んでみてください。
「余の辞書に不可能という文字はない」の原文と意味
ナポレオンの名言として最も有名なこの言葉は、もとの手紙を読むと、日本で知られている形とはかなり違う場面で書かれています。
原文は1813年7月9日のルマロワ宛の手紙
原文は、1813年7月9日にドレスデンから、マクデブルクの総督だったルマロワ将軍に宛てた手紙の一文です。
ナポレオン3世の命令で編まれた『ナポレオン1世書簡集』の第25巻(1868年刊)に、第20256号として収められています(出典:Internet Archive「Correspondance de Napoléon Ier 第25巻」)。
該当する一文は、フランス語で「« Ce n'est pas possible », m'écrivez-vous : cela n'est pas français.」です。
直訳すると、「『それは不可能です』と君は書いてくる」に続けて「それはフランス的ではない」と書いています。
「cela n'est pas français」は「それはフランス語ではない」とも訳せる言い回しで、フランスではのちに「Impossible n'est pas français」という短い形で知られるようになりました。
手紙で求めていたのは燕麦の輸送
手紙の中身は、戦場での決意や大きな夢を語ったものではありません。
ナポレオンは、マクデブルクには24万ボワソー(当時の容量の単位)の燕麦があるはずだと書き、近衛隊の馬が死にかけているので、燕麦を積んだ船2隻をすぐに出すよう命じています。
将軍が「不可能です」と書いてきたことに対して「だから君の手紙には不満だ」と続けているので、部下の言い訳を退ける叱責の一文だと読めます。
1813年の夏は、ロシア遠征の失敗のあと、ドイツで連合軍と一時休戦していた時期で、近衛隊の馬が弱っていたことが手紙から分かります。
日本では、1800年のアルプス越えのような無理な作戦を前に、弱音を吐いた部下を励ました言葉として紹介されることもあります。
しかし手紙が書かれたのはアルプス越えの13年後で、中身も山越えの作戦ではなく、馬の飼料を運ぶ命令でした。
「不可能はない」という言葉は、できないと言う前に手を尽くせという意味で使われることが多い言葉です。
もとは軍の補給をめぐる具体的な命令だったと知っておくと、引用するときに意味を広げすぎずにすみます。
「辞書」の形はスマイルズ『自助論』に見られる
原文に「辞書」という語がないのに、日本では「余の辞書に」という形で知られています。
イギリスのサミュエル・スマイルズが1859年に出した『Self-Help(自助論)』には、ナポレオンの言葉として「"Impossible," said he, "is a word only to be found in the dictionary of fools."」という一文があります(出典:Project Gutenberg「Self-Help」)。
「不可能とは、愚か者の辞書にだけある言葉だ」という意味で、スマイルズはこの言葉の出典を示していません。
同じ章では、ロシアの将軍スヴォーロフについても、リシュリューやナポレオンと同じように「不可能」という語を辞書から追い出したがった、と書いています。
この本は中村正直が『西国立志編』として訳し、明治の初めの若い人たちに広く読まれました。
山口県文書館の資料解説によると、『西国立志編』は「剛毅」を論じた部分で、ナポレオンの格言を「不能ト云フ字ハ愚人ノ字書ニ見ユルノミ」と紹介しています(出典:山口県文書館「ナポレオン」資料解説)。
同じ解説は、1818年の長崎遊学でナポレオンを知った儒学者の頼山陽が詠んだ詩「仏郎王歌」も、日本でナポレオンの名を広めたと説明しています。
今の「余の辞書に不可能という文字はない」は、こうした英語の形や明治の訳を経て言い換えられた形と受け取れますが、この形が最初にどの本に出たのかは確認できていません。
兵士に向けた布告と言葉
ナポレオンの言葉の多くは、戦場で兵士に向けた布告や呼びかけとして残っています。
どれも人々を戦争へ向かわせるための言葉でもあったので、その役割を踏まえて読みます。
兵士諸君、四十世紀が諸君を見ている
1798年7月21日、エジプト遠征中のピラミッドの戦いの前に、ピラミッドを指して兵に語ったとされる言葉です。
書簡集の第4巻は、この言葉の典拠を当日の記録ではなく、「セント=ヘレナで本人が口述した回想(エジプト戦役)」としています(出典:Internet Archive「Correspondance de Napoléon Ier 第4巻」)。
書簡集にある原文は「Soldats, quarante siècles vous regardent !」です。
日本でよく知られる「ピラミッドの頂から四千年の歴史が諸君を見下ろしている」という形は、書簡集の本文よりも言葉が多くなっています。
戦いから20年ほどたって、本人が自分の戦いを語り直したときの言葉として読むのが正確です。
兵士諸君、私は諸君に満足している
1805年12月2日のアウステルリッツの戦いの翌日、12月3日付で軍に出した布告の書き出しです(出典:Internet Archive「Correspondance de Napoléon Ier 第11巻」)。
原文は「Soldats, je suis content de vous.」で、この布告は当時の官報『モニトゥール』にも載りました。
布告の結びでは、故郷に帰って「私はアウステルリッツの戦いにいた」と言えば、「あれは勇者だ」と答えが返ってくるだろう、と兵士に約束しています。
短い言葉で兵士の誇りに訴える書き方は文章として巧みですが、多くの命が失われた戦いを誇りの物語に変える働きもあったと受け取れます。
敗北と退位のときに残した言葉
勝ち続けた時期の布告よりも、敗れたときの言葉のほうに、ナポレオンの考え方がよく表れているように私は感じます。
崇高から滑稽までは一歩しかない
1812年のロシア遠征に失敗し、軍を離れてパリへ急ぐ途中、12月10日にワルシャワへ立ち寄ったときの言葉です。
ワルシャワ駐在のフランス大使だったド・プラットが、1815年に出した『ワルシャワ大使記』に書き留めています(出典:Internet Archive「Histoire de l'ambassade dans le grand-duché de Varsovie en 1812」)。
ド・プラットによると、ナポレオンは面会した人たちの前で「Du sublime au ridicule il n'y a qu'un pas.」を何度もくり返しました。
ド・プラットは、ヨーロッパ中から笑い者にされると感じている様子だった、とも書いています。
立派に見えたことが、わずかなきっかけで笑いの種に変わるという意味に受け取れます。
大きな成功を手にした人ほど、失敗したときの落差も大きくなるという、自分の立場を見つめた言葉としても読めます。
二十年来、私は諸君がいつも名誉と栄光の道にいるのを見てきた
1814年4月20日、退位したナポレオンがフォンテーヌブロー宮殿で古参の近衛兵に別れを告げたときの言葉です。
書簡集の第27巻は、秘書官だったファン男爵の『1814年の手記』からこの言葉を収めています(出典:Internet Archive「Correspondance de Napoléon Ier 第27巻」)。
ナポレオンはこの中で、戦争は終わりが見えず、続ければ内戦になってフランスがいっそう不幸になるので、自分たちの利益を国のために手放した、と語っています。
そのうえで、ともに成し遂げたことを書き残したいと述べ、兵士たちにはこれからもフランスに仕えてほしいと頼んでいます。
決断を語る言葉として読むなら、戦い続けることより、退くことを選んだ場面の言葉だと受け取れます。
セント=ヘレナで語った考えと遺言
最後の流刑地セント=ヘレナ島では、側近や医師がナポレオンとの会話を書き留め、のちに本として出版されました。
本人が書いた文書ではないので、誰の記録かを添えて紹介します。
才能ある者に開かれた道
セント=ヘレナでナポレオンを診た医師のバリー・オメーラは、1822年の『Napoleon in Exile』に、ナポレオンが語った政治の方針を記録しています(出典:Internet Archive「Napoleon in Exile」第1巻)。
記録では、ナポレオンは自分の方針を「la carrière ouverte aux talens(才能ある者に開かれた道)」だったと語り、生まれや財産で人を分けなかったと説明しています。
ナポレオンはこの言葉を、自分で考えた名言としてではなく、政治の方針として語っています。
家柄に関係なく力のある人を取り立てるという考え方は、今の職場や学校での人の選び方を考えるときにも通じるものがあります。
想像力が世界を支配する
側近のラス・カーズが書いた『セント=ヘレナ日記』には、1816年1月の会話として「l'imagination gouverne le monde」という言葉が残っています(出典:Quote Investigator「Imagination Rules the World」)。
ナポレオンをよく知らないはずの水兵たちが、自分を強く慕っていることについて語ったときの言葉です。
人を動かすのは、実際に知っていることよりも、心の中で思い描くものだという意味に受け取れます。
ただし、同じ言い方は1815年にアメリカの作家ブラッケンリッジが英語で書いていて、ナポレオンが最初に言った言葉ではありません。
世界を動かしているのは空腹だ
同じ『セント=ヘレナ日記』の英訳版には、1816年7月の出来事として、ナポレオンが子どもと交わした会話が載っています(出典:Internet Archive「Memorial de Sainte Helene」英訳版第2巻)。
毎日は勉強していないと打ち明けた少年トリスタンに、毎日食べるなら毎日働くべきだと話し、そのあと「It is hunger that makes the world move.」と言ったと記されています。
人が働くのはまず生きるためだという、飾らない見方が表れた言葉と読めます。
フランス語の原文の形は確認できていないため、ここでは英訳版の文を紹介しています。
ナポレオン法典をヨーロッパの法典に
ラス・カーズは、ナポレオンがヨーロッパ全体で通貨や度量衡、法律をそろえたいと、くり返し語っていたと書いています。
その中で、「なぜ私のナポレオン法典がヨーロッパ法典の土台にならなかったのか」という言葉を記録しています(出典:Internet Archive「Mémorial de Sainte-Hélène」仏語版第7巻)。
民法典への強いこだわりが読み取れる言葉です。
ただし、ナポレオンの時代の「統一」は、武力で各地を支配したうえで進められたものでもあったことを忘れずに読みたいところです。
ナポレオンの手紙や会話に残る言葉を日本語でまとめて読むなら、オクターヴ・オブリ編の『ナポレオン言行録』(大塚幸男訳、岩波文庫)があります。
\ 本人の言葉を日本語で読む /
遺灰はセーヌの岸辺に
1821年4月15日、ナポレオンはロングウッドの住まいで、全文を自分の手で書いた遺言を残しました(出典:Internet Archive「Correspondance de Napoléon Ier 第32巻」)。
その第2条には「私の遺灰が、私がこれほど愛したフランス国民のただ中、セーヌの岸辺に眠ることを望む」とあります。
ナポレオンは約3週間後の5月5日に亡くなりました。
この願いは、1840年12月15日に遺骸がパリのアンヴァリッドに着いたことで形になりました(出典:Fondation Napoléon「15 décembre 1840, le retour des Cendres」)。
ナポレオンの名言と間違えられやすい言葉
ネットや名言集でナポレオンの言葉とされているものには、出典の見つからない言葉や、もとは別の人の言葉だったものが混ざっています。
出典が見つからない言葉
次の言葉は、ナポレオンの言葉として広く紹介されていますが、本人の手紙や同時代の記録で元の文を確かめられませんでした。
- 勝利は最も忍耐強い人にもたらされる
- 指導者とは希望を配る人である
- 私の本当の栄光は40の戦いに勝ったことではない
- 最も大きな危険は勝利の瞬間にある
- 愚人は過去を語り、賢人は現在を語り、狂人は未来を語る
「勝利は最も忍耐強い人に」は、フランス語や英語の名言集にも載っていますが、出典を示したものは見当たりません。
「指導者とは希望を配る人」は英語圏で広まった言葉で、フランス語の原文や、誰が記録したかは分かっていません。
「最も大きな危険は勝利の瞬間にある」と「愚人は過去を語り」の2つも、フランス語の名言サイトや英語の名言集にはナポレオンの言葉として載っています。
ただし、どれも手紙や布告、側近の記録のどこにある言葉かを示しておらず、もとの文を見つけることはできませんでした。
民法典を「永遠に生きる」と語ったとされる言葉は、セント=ヘレナでの言葉として知られていますが、どの記録者の本に残る言葉かを特定できませんでした。
法典について本人が語ったことを確かめたい場合は、先に紹介したラス・カーズの記録のほうが出典がはっきりしています。
ナポレオンが最初ではない言葉
ナポレオンの言葉として記録にあっても、もとは別の人の言葉だったものもあります。
「軍隊は胃袋で行進する」は、ナポレオンの言葉とする最も古い記録が1862年のアメリカの新聞で、それより前の1858年には、カーライルがフリードリヒ大王の言葉として似た文を書いています(出典:Quote Investigator「An Army Marches On Its Stomach」)。
ナポレオンの言葉として記録で確かめられるのは、先に紹介した「世界を動かしているのは空腹だ」のほうです。
「歴史とは合意された作り話にすぎない」はラス・カーズの記録にありますが、ナポレオン自身が「うまく言った人がいるように」と前置きしていて、自分の言葉としては語っていません(出典:Quote Investigator「History Is a Fable Agreed Upon」)。
短くて覚えやすい言葉ほど、あとから有名な人の名前が結びつけられやすいので、引用するときは誰の記録かを確かめると安心です。
ナポレオンの言葉を引用するときの確かめ方
スピーチや文章でナポレオンの言葉を使うときは、次の順に確かめると誤引用を避けやすくなります。
- 本人の手紙や布告なら、書簡集で日付と宛先を確かめる
- 側近の記録なら、ラス・カーズやオメーラなど誰が書いたかを添える
- 日本語訳だけでなく、フランス語の原文の形を確かめる
- 出典が示されていない言葉は「ナポレオンの言葉とされる」と書く
とくに戦場の布告は、兵士を戦いへ向かわせるための言葉だったので、励ましの言葉として使う前に場面を確かめておくと安心です。
出典と背景を確かめながらほかの偉人の言葉も読みたい方は、偉人の名言を出典と背景つきでまとめた記事も参考にしてください。
ナポレオンの名言に関するよくある質問
「余の辞書に不可能という文字はない」は本当にナポレオンの言葉?
もとになった一文は1813年の本人の手紙にありますが、「辞書」を使った今の形は、後の時代に言い換えられたものです。
「Impossible n'est pas français」とはどういう意味?
「不可能はフランス語ではない」という意味で、ナポレオンの手紙の一文を短くした形として知られています。
ナポレオンの名言を座右の銘やスピーチに使ってもいい?
出典を確かめられる言葉なら使えますが、戦争や支配の場面で語られた言葉も多いので、背景を知ったうえで選ぶのがおすすめです。
英語で知られているナポレオンの名言は本人の言葉?
英語で広まっている言葉の多くは、フランス語の記録を訳したものか、出典の分からない形なので、原文を確かめてから使うと安心です。
ナポレオンの手紙の原文はどこで読める?
19世紀に編まれた『ナポレオン1世書簡集』が、Internet Archiveなどで原本のスキャンとして公開されています。
ナポレオンの名言のまとめ
ナポレオンの名言は、手紙や布告、側近の記録までたどると、日本で知られている形とは違う場面で語られていることが分かります。
「余の辞書に不可能という文字はない」も、もとは1813年に燕麦の輸送をしぶった将軍を叱った手紙の一文でした。
戦争の中で語られた言葉が多いので、勇ましさだけを取り出さず、背景とあわせて読むことが大切です。
持ち帰るなら、成功と失敗の近さを語った「崇高から滑稽までは一歩しかない」と、才能ある者に道を開くという方針の言葉の2つです。
気になった言葉は、出典の日付と記録者を確かめてから使ってみてください。