坂本龍馬の名言としてよく知られるのが、「日本を今一度せんたくいたし申候」や「夜が明けるぜよ」です。
ところが、坂本龍馬の名言として広まっている言葉の多くは、本人の手紙ではなく、テレビドラマや小説の中の台詞です。
坂本龍馬の名言はドラマや小説の台詞を本人の言葉とせず、手紙など確認できる出典を優先して背景まで読むことで、龍馬の考え方を正確につかめます。
「日本を今一度せんたくいたし申候」は姉の乙女に宛てた手紙の言葉ですが、「夜が明けるぜよ」はドラマ『JIN-仁-』の台詞です。
この記事のポイント
- 「日本を今一度せんたくいたし申候」は姉の乙女に宛てた手紙の言葉
- 「世の人は我を何とも言わば言え」は龍馬の和歌として伝わる
- 「夜が明けるぜよ」はドラマ『JIN-仁-』の台詞
- 「人の世に道は一つということはない」などは小説から広まったとされる
坂本龍馬の名言一覧
この記事で紹介する主な言葉を、出典と分類つきで一覧にします。
| 言葉 | 出典 | 分類 |
|---|---|---|
| 日本を今一度せんたくいたし申候 | 1863年6月29日 乙女宛の手紙 | 本人の手紙 |
| 世の人はわれをなにともいはばいへ わがなすことはわれのみぞしる | 龍馬の和歌 | 本人の和歌 |
| 此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり | 1866年12月4日 乙女宛の手紙 | 本人の手紙 |
| 夜が明けるぜよ | ドラマ『JIN-仁-』 | 創作の台詞 |
| 人の世に道は一つということはない | 小説『竜馬がゆく』とされる | 創作の台詞 |
坂本龍馬とは
坂本龍馬は、1836年に土佐藩(今の高知県高知市)の郷士の家に生まれ、1867年に京都で暗殺された幕末の志士です。
1862年に土佐藩を抜け出し、幕府の軍艦奉行並だった勝海舟の弟子になりました。
その後、長崎で亀山社中(のちの海援隊)を作り、1866年には対立していた薩摩藩と長州藩を結びつける薩長同盟の成立に力を尽くしました。
1867年の大政奉還からわずか1か月後、京都の近江屋で中岡慎太郎とともに襲われ、31歳で亡くなりました。
龍馬の手紙は、現代語訳と解説がついた本で読むと、名言が書かれた状況までよくわかります。
\ 龍馬の本当の言葉を手紙で /
手紙と和歌に残る坂本龍馬の名言
龍馬は家族、とくに3歳年上の姉・乙女にたくさんの手紙を書いており、そこに本人の言葉が残っています。
日本を今一度せんたくいたし申候
1863年(文久3年)6月29日、龍馬が乙女に宛てた手紙にある言葉で、日本をもう一度洗濯するように根本から立て直したいという意味です。
この手紙は、長州藩の砲撃で被害を受けた外国船を幕府が修理していることへの憤りの中で書かれたもので、京都国立博物館が所蔵しています(出典:京都国立博物館 館蔵品データベース)。
土佐藩という枠をこえて、「日本」という国全体を考えていた龍馬の視野の広さが伝わります。
「せんたく」というくだけた言葉で国の立て直しを語るところにも、難しいことをわかりやすく伝えようとする龍馬らしさが表れています。
世の人はわれをなにともいはばいへ わがなすことはわれのみぞしる
龍馬の自筆の和歌として伝わる言葉で、世の中の人が自分を何と言おうとかまわない、自分のしていることの意味は自分だけがわかっている、という意味です。
藩を抜け出し、周りから理解されにくい道を選んだ龍馬の決意が込められています。
此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり
1866年(慶応2年)12月4日、乙女に宛てた手紙の一節で、伏見の寺田屋で襲われたときに妻のお龍が機転をきかせたおかげで命が助かった、と報告しています。
同じ手紙には、お龍と鹿児島の霧島山に登ったときの様子が、絵入りで楽しそうに書かれています。
龍馬の人柄が伝わる手紙の言葉
乙女への手紙には、土佐の言葉やくだけた表現が多く、龍馬の明るい人柄がよく表れています。
大事な政治の話のすぐあとに冗談を書いたり、絵を描いて様子を伝えたりと、家族を楽しませようとする工夫も見られます。
人間の一生は、わからないのが当然
1863年3月20日の乙女宛の手紙では、運の悪い人は風呂から出ようとしてけがをして死ぬこともある、とユーモアを交えて人の一生の不思議さを書いています。
だからこそ、自分は大きなことのために命を使いたいという覚悟が、冗談めかした文章の中に込められています。
丸くとも一かどあれや人心 あまりまろきはころびやすきぞ
龍馬の作として伝わる歌で、人の心は丸く穏やかでも、どこかに一つ角を持っていたほうがよい、丸すぎると転がりやすい、という意味です。
人とうまく付き合いながらも、自分の芯は曲げないという、薩摩と長州の間を取り持った龍馬らしい考え方として紹介されています。
エヘンエヘン
勝海舟の弟子になったころの乙女宛の手紙では、天下一の軍学者の門人になってかわいがられていると書き、最後に「エヘンエヘン」と得意げな言葉を添えています。
身内にだけ見せる無邪気な一面は、手紙だからこそ残った龍馬の素顔で、教科書の中の英雄とは違う親しみやすさを感じさせます。
歴史上の人物のほかの名言もあわせて読みたい方は、歴史上の人物の名言を解説した記事も読んでみてください。
ドラマや小説から広まった坂本龍馬の名言
龍馬の名言として広く知られている言葉の多くは、ドラマや小説の中の台詞です。
ドラマ『JIN-仁-』の台詞
「夜が明けるぜよ…夜が明けたぜよ」「あの先生見ちゅうと、ワシャー己がちんまい見えてしょうがないぜよ」「先生は、欲が無さ過ぎる」は、TBSのドラマ『JIN-仁-』で俳優の内野聖陽さんが演じた龍馬の台詞です。
「神は乗り越えられる試練しか与えない」も同じドラマの台詞で、龍馬の言葉ではなく、主人公たちの台詞として描かれています。
ネットでは「神は乗り越えられない試練しか与えない」と逆の意味で書かれていることもあり、注意が必要です。
小説『竜馬がゆく』から広まった言葉
「おれは落胆するよりも、次の策を考えるほうの人間だ」は、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』から広まった言葉とされています。
「人の世に道は一つということはない」と、それに続く「道は百も千も万もある」という言葉も、同じように小説から広まったとされています。
小説の中の竜馬の言葉が、いつの間にか本人の言葉として紹介されるようになりました。
「船中八策」と「新政府綱領八策」
龍馬が長崎から京都へ向かう船の中で新しい国の方針をまとめたとされる「船中八策」も、その名前と船の中で書いたという話は、のちの時代に広まったものと考える研究者が多くいます。
龍馬の自筆として残っているのは、1867年11月ごろに書かれた「新政府綱領八策」で、こちらは国立国会図書館などに伝わっています。
龍馬の人気そのものも、明治時代に坂崎紫瀾が新聞に連載した伝記小説『汗血千里駒』から広まったとされ、早い時期から物語としての龍馬が語られてきました。
記録に見当たらない言葉
また、「日本の夜明けは近いぜよ」や「人の世に失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ」も、龍馬の手紙などの記録には見当たりません。
坂本龍馬の名言に関するよくある質問
「日本を今一度せんたくいたし申候」は誰に宛てた手紙ですか?
1863年6月29日に、姉の乙女に宛てた手紙の言葉です。
「夜が明けるぜよ」は坂本龍馬の言葉ですか?
本人の言葉ではなく、ドラマ『JIN-仁-』の中の龍馬の台詞です。
「人の世に道は一つということはない」は本当に龍馬の言葉ですか?
龍馬の手紙などには見当たらず、小説『竜馬がゆく』から広まった言葉とされています。
坂本龍馬の手紙の実物はどこで見られますか?
京都国立博物館が、姉の乙女に宛てた手紙など龍馬の関係資料を所蔵しています。
龍馬の故郷の高知県立坂本龍馬記念館でも、手紙などの資料が紹介されています。
坂本龍馬の短い名言はありますか?
手紙にある「日本を今一度せんたくいたし申候」が、本人の言葉として確かめられる代表的な一言です。
坂本龍馬の名言まとめ
坂本龍馬の名言はドラマや小説の台詞を本人の言葉とせず、手紙など確認できる出典を優先して背景まで読むことで、龍馬の考え方を正確につかめます。
手紙や和歌に残る龍馬の言葉からは、日本全体を見すえる広い視野と、家族に見せる明るい人柄の両方が伝わってきます。
「夜が明けるぜよ」や「人の世に道は一つということはない」のように、作品の台詞が本人の言葉として広まった例も多くあります。
持ち帰りたい一言を選ぶなら、「日本を今一度せんたくいたし申候」です。
気になった言葉は、龍馬の手紙の原文や現代語訳でじっくり味わってみてください。