「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(口語訳)は、新約聖書のマタイによる福音書7章7節にある言葉です。
イエスが山の上で群衆と弟子たちに語った教えの一節で、すぐあとには、子どもがパンを求めているのに石を与える親はいない、というたとえが続きます。
聖書の名言は、一節だけを切り取るより、書名・章節・話し手と場面を確かめると、言葉が本来伝えている意味が見えてきます。
「天は自ら助くる者を助く」のように聖書にはない言葉や、元の聖句と違う形で広まった言葉もあるため、本文と照らし合わせて読むことが大切です。
この記事のポイント
- 聖書の名言35を書名・章節・話し手・場面つきで紹介
- よく知られた言葉の多くはマタイによる福音書5〜7章の山上の説教にある
- 「天は自ら助くる者を助く」は聖書ではなくスマイルズ『自助論』の冒頭の言葉
- ローマ人への手紙12章15節の本文は「笑う」ではなく「喜ぶ」
聖書の名言一覧
この記事で紹介する35の言葉を、書名・章節と話し手つきで一覧にします。
言葉の欄は、口語訳の本文から必要な部分だけを抜き出したものです。
| 言葉(口語訳) | 書名・章節 | 話し手・場面 |
|---|---|---|
| 光あれ | 創世記1章3節 | 神(天地創造) |
| 目には目、歯には歯 | 出エジプト記21章24節 | 律法の定め |
| すべてのわざには時がある | 伝道の書3章1節 | 伝道者 |
| あすのことを誇ってはならない | 箴言27章1節 | 箴言の教え |
| あなたがたは、地の塩である | マタイによる福音書5章13節 | イエス(山上の説教) |
| あなたがたは、世の光である | マタイによる福音書5章14節 | イエス(山上の説教) |
| ほかの頬をも向けてやりなさい | マタイによる福音書5章39節 | イエス(山上の説教) |
| 敵を愛し、迫害する者のために祈れ | マタイによる福音書5章44節 | イエス(山上の説教) |
| 右の手のしていることを左の手に知らせるな | マタイによる福音書6章3節 | イエス(山上の説教) |
| あすのことを思いわずらうな | マタイによる福音書6章34節 | イエス(山上の説教) |
| 人をさばくな | マタイによる福音書7章1節 | イエス(山上の説教) |
| 真珠を豚に投げてやるな | マタイによる福音書7章6節 | イエス(山上の説教) |
| 求めよ、そうすれば、与えられるであろう | マタイによる福音書7章7節 | イエス(山上の説教) |
| 人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ | マタイによる福音書7章12節 | イエス(山上の説教) |
| 狭い門からはいれ | マタイによる福音書7章13節 | イエス(山上の説教) |
| 人はパンだけで生きるものではなく | マタイによる福音書4章4節 | イエス(荒野で試みる者に) |
| らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい | マタイによる福音書19章24節 | イエス(弟子たちに) |
| カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい | マタイによる福音書22章21節 | イエス(税金について問われて) |
| 自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ | マタイによる福音書22章39節 | イエス(律法学者に) |
| 剣をとる者はみな、剣で滅びる | マタイによる福音書26章52節 | イエス(捕らえられる場面) |
| 初めに言があった | ヨハネによる福音書1章1節 | 福音書の書き出し |
| あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい | ヨハネによる福音書8章7節 | イエス(律法学者たちに) |
| 一粒の麦が地に落ちて死ななければ | ヨハネによる福音書12章24節 | イエス |
| 受けるよりは与える方が、さいわいである | 使徒行伝20章35節 | パウロ(エペソの長老たちに) |
| 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい | ローマ人への手紙12章15節 | パウロの手紙 |
| 善をもって悪に勝ちなさい | ローマ人への手紙12章21節 | パウロの手紙 |
| 愛は寛容であり、愛は情深い | コリント人への第一の手紙13章4節 | パウロの手紙 |
| のがれる道も備えて下さる | コリント人への第一の手紙10章13節 | パウロの手紙 |
| 金銭を愛することは、すべての悪の根である | テモテへの第一の手紙6章10節 | パウロからテモテへの手紙 |
| 働こうとしない者は、食べることもしてはならない | テサロニケ人への第二の手紙3章10節 | パウロたちからの手紙 |
書名は、引用している口語訳の呼び方にそろえています。
落ち込んだときや不安なときに読み返されることの多い5つの言葉は、次の表にまとめました。
| 言葉(口語訳) | 書名・章節 | 話し手・場面 |
|---|---|---|
| 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない | 詩篇23篇1節 | ダビデの歌 |
| すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい | マタイによる福音書11章28節 | イエス |
| 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった | ヨハネによる福音書3章16節 | ニコデモとのやりとりに続く箇所 |
| 恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる | イザヤ書41章10節 | 神からイスラエルへ |
| いつも喜んでいなさい | テサロニケ人への第一の手紙5章16節 | パウロたちからの手紙 |
この5つは、後半の「つらいときに読まれる聖書の言葉」の見出しで、前後の節とあわせて紹介しています。
聖書の名言を読む前に知っておきたいこと
聖書の言葉を取り違えずに受け取るために、書名と章節の見方と、日本語訳の違いを先に押さえておきます。
書名と章節の見方
聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれていて、それぞれが創世記やマタイによる福音書のような、たくさんの書からできています。
「マタイによる福音書7章7節」は、マタイによる福音書という書の、7章の7番目の節という意味です。
名言として広まった言葉でも、前後の節を読むと、誰が誰に向けて、どんな場面で語ったのかが分かります。
日本聖書協会の公式サイトでは、口語訳・新共同訳・聖書協会共同訳の本文を、書名・章・節を指定して読むことができます(出典:日本聖書協会「聖書本文検索」)。
日本語訳による言い回しの違い
日本聖書協会が出している日本語の聖書には、文語訳、1955年発行の口語訳、1987年の新共同訳、2018年の聖書協会共同訳があります。
同じ節でも訳によって言い回しが違い、たとえばコリント人への第一の手紙13章4節は、口語訳では「愛は寛容であり」と始まりますが、新しい訳では「忍耐」を前に出す訳し方になっています。
書名も訳によって変わり、口語訳の「伝道の書」は新共同訳では「コヘレトの言葉」、「使徒行伝」は「使徒言行録」と呼ばれています。
この記事では、著作権の保護期間が終わっている1955年発行の口語訳から、必要な部分だけを引用しています(出典:日本聖書協会「聖書の著作権について」)。
保護期間が終わっていても訳文をみだりに改変することはできないとされているため、この記事でも本文の文字はそのまま写しています。
旧約聖書の名言
旧約聖書からは、天地創造の場面、律法の定め、知恵を語る書の中から、よく知られた4つの言葉を選びました。
光あれ(創世記1章3節)
「光あれ」(口語訳)は、創世記1章3節で、神が最初に語った言葉として書かれています。
創世記は、神が天と地を創造したという1節から始まり、3節で神が「光あれ」と言うと、光があったと続きます。
暗闇の中に初めて光が生まれる場面なので、物事の始まりを表す言葉として読むこともできます。
目には目、歯には歯(出エジプト記21章24節)
「目には目、歯には歯」(口語訳)は、出エジプト記21章24節にある律法の定めです。
直前の節では、人が争って身ごもった女性を傷つけた場合の償いが定められていて、24節はその続きとして、受けた害と同じものでつぐなう原則を示しています。
辞書の解説では、受けた害を越える報復が一般的だった時代に、報復を一定の範囲に抑える歯止めとして働いたと考えられている、と説明されています(出典:コトバンク「目には目を歯には歯を」)。
新約聖書のマタイによる福音書5章38節では、イエスがこの言葉を「目には目を、歯には歯を」(口語訳)と引いたうえで、39節で別の教えを語っています。
「目には目を」はガンジーの言葉とされる言い回しにも使われていて、その出どころはガンジーの名言を出典つきで紹介した記事で取り上げています。
すべてのわざには時がある(伝道の書3章1節)
「すべてのわざには時がある」(口語訳)は、伝道の書3章1節の後半です。
伝道の書は、エルサレムの王である「伝道者」の言葉として書かれた書で、新共同訳以降は「コヘレトの言葉」という書名になっています。
続く2節から8節では、生まれる時と死ぬ時、植える時と抜く時、愛する時と憎む時のように、正反対のことが対になって並びます。
物事にはそれぞれふさわしい時期がある、と受け取れる言葉で、焦りを感じているときに読み返したくなる一節です。
あすのことを誇ってはならない(箴言27章1節)
「あすのことを誇ってはならない」(口語訳)は、箴言27章1節の言葉です。
その理由として、一日のうちに何が起こるかを知ることはできないからだ、と続きます。
先のことを当然のように語らず、今日という一日を大切にする姿勢を表した言葉と読むことができます。
新約聖書のマタイによる福音書6章34節にも明日についての言葉がありますが、こちらは思いわずらいを手放す方向の言葉で、向きが少し違います。
山上の説教の名言(マタイによる福音書5〜7章)
聖書の名言として知られる言葉の多くは、マタイによる福音書5章から7章に書かれたイエスの教えの中にあります。
5章1節では、イエスが群衆を見て山に登り、座ると弟子たちが近寄ってきた、と場面が書かれています。
7章28節は、イエスがこれらの言葉を語り終えると、群衆はその教えにひどく驚いた、と結ばれていて、この3章分は「山上の説教」や「山上の垂訓」と呼ばれています。
あなたがたは、地の塩である(5章13節)
「あなたがたは、地の塩である」(口語訳)は、山上の説教の早い段階で、イエスが聞いている人々に向けて語った言葉です。
すぐあとに、もし塩のききめがなくなったら、もう何の役にも立たない、と続きます。
日本語でも「地の塩」は慣用句になっていて、辞書では、社会のために尽くして模範となる人のたとえと説明されています。
あなたがたは、世の光である(5章14節)
「あなたがたは、世の光である」(口語訳)は、地の塩の言葉のすぐあとの14節です。
山の上にある町は隠れることができない、と続き、15節では、あかりは枡の下ではなく燭台の上に置いて家じゅうを照らす、というたとえが語られます。
16節では、人々があなたがたのよい行いを見るように光を輝かせなさい、と結ばれていて、自分のよさを隠さずに生かすよう促す言葉と受け取れます。
ほかの頬をも向けてやりなさい(5章39節)
一般には「右の頬を打たれたら左の頬も」という形で知られる言葉で、口語訳では「ほかの頬をも向けてやりなさい」となっています。
直前の38節で、目には目を、歯には歯を、と言われていたことを挙げたうえで、39節で、悪人に手向かうな、と続けています。
新しい訳では、ここを「左の」頬とはっきり書く訳し方になっています。
仕返しを返さず、争いを自分のところで止める姿勢を示した言葉と受け取れます。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ(5章44節)
43節で、隣人を愛して敵を憎め、と言われていたことを挙げてから、44節で語られる言葉です。
45節では、天の父は悪い者にも良い者にも太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる、と理由が語られます。
好きになれない相手にも同じ太陽と雨が注いでいる、という見方を示した言葉と読むことができます。
右の手のしていることを左の手に知らせるな(6章3節)
「右の手のしていることを左の手に知らせるな」(口語訳)は、施しをするときの心構えを語った言葉です。
2節では、人にほめられるために、ラッパを吹きならすようにして施しをする人のことが語られています。
よいことをしても見せびらかさず、人目のためにしない、という意味で受け取れます。
あすのことを思いわずらうな(6章34節)
「あすのことを思いわずらうな」(口語訳)は、6章の終わりに置かれた言葉です。
その前の25節では、何を食べようか、何を着ようかと思いわずらうな、と語られ、26節では、まくことも刈ることもしない空の鳥が養われている、というたとえが出てきます。
34節の後半は、一日の苦労はその日一日だけで十分である、と結ばれています。
新共同訳では、ここが「思い悩む」という語で訳されています。
人をさばくな(7章1節)
「人をさばくな」(口語訳)は7章1節の冒頭で、自分がさばかれないためである、と理由が続きます。
3節では、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には気づかない、というたとえが続きます。
梁は家の屋根を支える太い木材のことで、他人の小さな欠点を責める前に、自分を振り返るよう促す言葉と受け取れます。
真珠を豚に投げてやるな(7章6節)
「真珠を豚に投げてやるな」(口語訳)は、7章6節で、聖なるものを犬にやるな、という言葉と並んで語られています。
ことわざの「豚に真珠」はこの節がもとになった言葉で、辞書では、価値の分からない者に貴重なものを与えても役に立たないことのたとえと説明されています。
本文では、それらを足で踏みつけ、向き直ってかみついてくるだろう、と続いていて、ことわざより強い調子で語られています。
求めよ、そうすれば、与えられるであろう(7章7節)
7章7節は、捜せ、そうすれば見いだすであろう、門をたたけ、そうすればあけてもらえるであろう、と3つの言葉が重ねられています。
9節から11節では、自分の子がパンを求めるのに石を与える親はいない、まして天の父は求める者に良いものをくださる、というたとえが続きます。
文語訳では「さらば」という語を使った言い回しで、この古い形も名言としてよく知られています。
前後を読むと、願いをかなえる方法というより、求める人に応えてくれる存在への信頼を語った言葉として受け取れます。
人々にもそのとおりにせよ(7章12節)
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(口語訳)は、7章12節の言葉です。
ルカによる福音書6章31節にも、ほぼ同じ内容の言葉があります。
この言葉は「黄金律」と呼ばれていて、百科事典では、その名称自体は近代以降のものとされていると説明されています。
自分がされたらうれしいことを人にもする、という分かりやすい形で、人との接し方の基本を示した言葉と受け取れます。
狭い門からはいれ(7章13節)
「狭い門からはいれ」(口語訳)のあと、滅びにいたる門は大きくその道は広い、と続きます。
14節では、命にいたる門は狭くその道は細く、それを見いだす者は少ない、と語られます。
日本語の「狭き門」には、救いに至る道の困難さのたとえと、就職や入学が難しいことのたとえの2つの意味があると辞書に載っています(出典:コトバンク「狭き門」)。
本文の「狭い門」は、試験の難関ではなく、命にいたる門のことを指しています。
福音書と使徒行伝に残る名言
山上の説教のほかにも、福音書にはイエスが特定の相手に向けて語った言葉が多く残っていて、使徒行伝にはパウロが引いたイエスの言葉があります。
人はパンだけで生きるものではなく(マタイ4章4節)
「人はパンだけで生きるものではなく」(口語訳)は、マタイによる福音書4章4節で、イエスが悪魔の試みに答えた言葉です。
4章1節で、イエスは荒野に導かれ、3節で、試みる者から、神の子ならこれらの石をパンに変えてみよ、と言われます。
イエスはこの言葉を、「と書いてある」と旧約聖書から引いて答えていて、もとは申命記8章3節にある言葉です。
申命記では、荒野でマナによって養われた出来事を振り返る中でこの言葉が語られていて、食べることだけでは満たされないものがある、という意味で受け取れます。
らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい(マタイ19章24節)
19章16節で、ひとりの人がイエスに、永遠の命を得るにはどんなよいことをすればよいか、とたずねます。
やりとりのあと、22節で、その青年はたくさんの資産を持っていたため、悲しみながら立ち去りました。
そのあとイエスが弟子たちに語ったのが、富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい、という言葉です。
大きならくだが小さな針の穴を通るという、とても起こりそうにないことを使ったたとえです。
カイザルのものはカイザルに(マタイ22章21節)
22章15節で、パリサイ人たちがイエスを言葉のわなにかけようと相談し、17節で、カイザルに税金を納めてよいかどうかをたずねます。
イエスが税に納める貨幣を持ってこさせ、これはだれの肖像かと問うと、彼らは「カイザルのです」と答えました。
そこで語られたのが、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(口語訳)という言葉です。
税として納めるものと、神に対して負うものとを分けて語った言葉と受け取れます。
自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ(マタイ22章39節)
22章35節で、律法学者がイエスを試そうとして、律法の中でどのいましめがいちばん大切かとたずねます。
イエスはまず、心をつくして神を愛することを挙げ、39節で、第二もこれと同様である、としてこの言葉を続けます。
もとは旧約聖書のレビ記19章18節にある言葉で、そこでは、あだを返さず、恨みをいだかず、という戒めと並んで書かれています。
自分を大切にすることと、隣人を大切にすることが並べて語られている、と読むこともできます。
剣をとる者はみな、剣で滅びる(マタイ26章52節)
26章51節で、イエスが捕らえられようとしたとき、一緒にいた者のひとりが剣を抜き、大祭司の僕の片耳を切り落とします。
イエスはその人に、剣をもとの所におさめなさい、と言い、「剣をとる者はみな、剣で滅びる」(口語訳)と続けました。
力で解決しようとすれば、同じ力で返される、という意味で受け取れる言葉です。
初めに言があった(ヨハネ1章1節)
「初めに言があった」(口語訳)は、ヨハネによる福音書の書き出しの言葉で、イエスの台詞ではなく、福音書の語り手の言葉です。
口語訳では、言は神と共にあり、言は神であった、と続きます。
この書き出しは、新共同訳と聖書協会共同訳でも口語訳と同じ言い回しになっています。
旧約聖書の創世記も口語訳では「はじめに」で始まり、2つの書の書き出しは似た形になっています。
罪のない者が、まず石を投げつけるがよい(ヨハネ8章7節)
ヨハネによる福音書8章3節で、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫の場で捕らえられた女性をイエスの前に連れてきます。
問い続ける彼らに、イエスは「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」(口語訳)と言いました。
9節では、それを聞いた人々が年寄りから順にひとりずつ出て行き、11節で、イエスは女性に、わたしもあなたを罰しない、今後はもう罪を犯さないように、と告げます。
人を責める前に、自分も同じ立場にあるのではないかと振り返るよう促す言葉と受け取れます。
一粒の麦が地に落ちて死ななければ(ヨハネ12章24節)
12章23節で、イエスは、人の子が栄光を受ける時がきた、と語り、続く24節でこのたとえを話します。
一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままだが、もし死んだなら豊かに実を結ぶようになる、という内容です。
ひとつの粒が形を失うことで多くの実になる、という自然のたとえで語られていて、何かを手放すことで新しく生まれるものがある、と受け取ることもできます。
受けるよりは与える方が、さいわいである(使徒行伝20章35節)
使徒行伝20章17節で、パウロはミレトからエペソに使いを送り、教会の長老たちを呼び寄せます。
その別れの言葉の中で、パウロが主イエスの言葉として引いたのが、「受けるよりは与える方が、さいわいである」(口語訳)です。
38節では、もう二度と会えないだろうと言われた長老たちが心を痛め、パウロを舟まで見送ったと書かれています。
弱い者を助けるために働くことを語った流れの中の言葉で、与えることそのものに喜びがある、と受け取れます。
つらいときに読まれる聖書の言葉
落ち込んだときや不安なときに読み返される聖句は、詩篇や預言書、福音書、手紙と、聖書のあちこちにあります。
ここでは、励ましの言葉として広く知られている5つを、前後の節とあわせて紹介します。
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない(詩篇23篇1節)
「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」(口語訳)は、詩篇23篇の最初の節です。
詩篇は神への祈りや賛美の歌を集めた書で、23篇には「ダビデの歌」という表題が付いています。
牧者は羊飼いのことで、新共同訳ではこの節が「主は羊飼い」と訳されています。
2節では緑の牧場といこいのみぎわに伴う主の姿が、3節では魂をいきかえらせる主の姿が、羊飼いと羊のたとえで歌われます。
4節の「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」(口語訳)は、あなたがわたしと共におられるからです、と続く一節です。
暗い道を通るときも一人ではない、と受け取れる言葉です。
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい(マタイ11章28節)
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」(口語訳)は、マタイによる福音書11章28節で、イエスが語った言葉です。
すぐあとに「あなたがたを休ませてあげよう」と続きます。
29節では、わたしは柔和で心のへりくだった者だから、わたしのくびきを負うて学びなさい、そうすれば魂に休みが与えられる、と語られます。
くびきは、牛などの首にかけて車や犂を引かせる横木のことです。
30節は、わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い、と結ばれていて、重荷を一人で背負わなくてよいと語る言葉として受け取れます。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった(ヨハネ3章16節)
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」(口語訳)は、ヨハネによる福音書3章16節の前半です。
後半は、御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである、と続きます。
3章は、ユダヤ人の指導者ニコデモが夜にイエスをたずねてくる場面から始まり、16節はそのやりとりに続く箇所にあります。
続く17節では、神が御子を世につかわしたのは世をさばくためではなく、世が救われるためである、と語られます。
恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる(イザヤ書41章10節)
「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる」(口語訳)は、旧約聖書のイザヤ書41章10節の言葉です。
8節で「わがしもべイスラエルよ」と呼びかけられていて、神がイスラエルの民に語りかける形で書かれています。
10節は、驚いてはならない、わたしはあなたの神である、わたしはあなたを強くし、あなたを助ける、と続きます。
13節でも「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」と、同じ励ましがくり返されます。
不安で足がすくむときに、一人で立っているのではないと支えてくれる言葉として受け取れます。
いつも喜んでいなさい(テサロニケ一5章16節)
「いつも喜んでいなさい」(口語訳)は、テサロニケ人への第一の手紙5章16節の言葉です。
17節の「絶えず祈りなさい」、18節の「すべての事について、感謝しなさい」と、短い勧めが3つ続きます。
この手紙は、パウロとシルワノとテモテからテサロニケの教会に宛てたものです。
直前の14節では、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい、と勧められています。
無理に明るくふるまうことより、喜びと祈りと感謝を日々の習慣にするよう勧めた言葉と読むことができます。
パウロの手紙の名言
新約聖書には、パウロが各地の教会に宛てた手紙が収められていて、短く覚えやすい言葉が多く残っています。
喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい(ローマ12章15節)
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(口語訳)は、ローマ人への手紙12章15節の言葉です。
この手紙は、パウロがローマの人々に宛てて書いたもので、12章では、迫害する者を祝福せよ、悪に悪で報いるな、といった生き方の勧めが続きます。
本文は「喜ぶ者と共に喜び」で、「笑う者と共に笑い」という形ではありません。
新共同訳と聖書協会共同訳でも、この部分は「喜ぶ」という語で訳されています。
相手の悲しみだけでなく、喜びにも同じように寄り添うことを勧めた言葉と読むことができます。
善をもって悪に勝ちなさい(ローマ12章21節)
「善をもって悪に勝ちなさい」(口語訳)は、悪に負けてはいけない、という言葉に続く一節です。
ローマ人への手紙12章の最後の節で、17節の、だれに対しても悪をもって悪に報いず、という勧めを受けた結びの言葉です。
悪いことをされたときに同じことで返すのではなく、よい行いで応えるよう勧めた言葉と受け取れます。
愛は寛容であり、愛は情深い(コリント一13章4節)
「愛は寛容であり、愛は情深い」(口語訳)は、コリント人への第一の手紙13章4節の言葉です。
この手紙は、パウロと兄弟ソステネからコリントの教会に宛てたもので、13章では愛とは何かが続けて語られます。
4節の後半では、ねたまない、高ぶらない、誇らない、と続き、7節では、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える、と語られます。
13節は、いつまでも残るのは信仰と希望と愛の3つで、そのうち最も大いなるものは愛である、と結ばれています。
ここで紹介しきれなかった聖書の言葉も、旧約と新約から1550の名言を集めて解説した『聖書名言辞典』で、意味とあわせて調べることができます。
\ 聖句を辞典で引いて読む /
聖書にない言葉と、元と違う形で広まった言葉
聖書の言葉として紹介される言葉の中には、聖書の本文にはないものや、元の聖句と違う形で覚えられているものがあります。
「天は自ら助くる者を助く」は聖書の言葉ではない
「天は自ら助くる者を助く」は聖書の言葉として紹介されることもありますが、聖書の本文にはありません。
イギリスのサミュエル・スマイルズが1859年に出した『Self-Help』(自助論)は、第1章を「Heaven helps those who help themselves」という格言から始めています(出典:Project Gutenberg「Self-Help」)。
スマイルズはこの言葉を、長く試されてきた格言として紹介しています。
日本では、中村正直が訳した『西国立志編』(1870〜71年)の冒頭に引かれ、その訳がそのまま定着しました(出典:コトバンク「天は自ら助くる者を助く」)。
辞書では、西洋の古いことわざを訳したものと説明されています。
『自助論』と『西国立志編』は、ナポレオンの「不可能」の言葉の出どころを紹介した記事でも取り上げています。
「乗り越えられる試練」とコリント一10章13節
「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言い方は、コリント人への第一の手紙10章13節を短く言い換えたものとして紹介されることがあります。
口語訳の本文では、神はあなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはない、と語ったうえで、試錬と同時に「のがれる道も備えて下さる」と続きます。
本文には、試練に耐えることに加えて、逃れる道が用意されているという後半があり、「乗り越えられる」だけに縮めると、この部分が抜け落ちます。
つらい状況にある人に向けて使うときは、元の節の後半まで添えると、押し付けに聞こえにくくなります。
「金は諸悪の根源」とテモテ一6章10節
「金は諸悪の根源」という言い方も、聖書がもとになっているとして語られることがあります。
テモテへの第一の手紙6章10節の口語訳は、「金銭を愛することは、すべての悪の根である」です。
本文が問題にしているのはお金そのものではなく、お金を愛すること、つまり欲ばって求める心のほうです。
同じ節の後半では、欲ばって金銭を求めた人々が信仰から迷い出て、多くの苦しみを負った、と続いています。
「働かざる者食うべからず」は聖書がもと
逆に、聖書とは関係がなさそうに見えて、聖書に由来する言葉もあります。
「働かざる者食うべからず」は、テサロニケ人への第二の手紙3章10節の「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(口語訳)がもとになった言葉です。
この手紙は、パウロとシルワノとテモテからテサロニケの教会に宛てたものです。
続く11節では、怠惰な生活を送り、働かないでいたずらに動きまわっている人がいると聞いた、と書かれていて、怠けて働かない人に向けた言葉だと分かります。
聖書の名言をスピーチや座右の銘に使うとき
聖書の言葉はスピーチや手紙、座右の銘にも使われますが、引用する前に確かめておきたいことがあります。
次の順に確かめると、意味を取り違えにくくなります。
- 書名・章・節を確かめる
- 前後の数節を読み、話し手と相手、場面を確かめる
- どの訳の言葉を使うかを決め、訳名を添える
- 本文の文字を変えずに写す
信仰を持つ人も持たない人もいる場では、長く読み継がれてきた言葉として紹介し、意味を自分の言葉で添えると伝わりやすくなります。
短い一節だけを使うときも、たとえば「狭い門」を試験の難関の意味で使うなど、本文と違う意味で使っていないかを見直しておくと安心です。
名言を話の中に入れる組み立て方は、名言をスピーチに取り入れる方法を紹介した記事で詳しく取り上げています。
聖書の名言に関するよくある質問
旧約聖書と新約聖書は何が違う?
旧約聖書はイエスが生まれる前から伝えられてきた書を集めたもので、新約聖書はイエスの言葉と行いを記した福音書や、パウロたちの手紙などを集めたものです。
聖書の言葉を引用するときは、どの訳を使えばいい?
決まりはありませんが、どの訳から引用したかと書名・章節を必ず添えます。
日本聖書協会の公式サイトでは、口語訳・新共同訳・聖書協会共同訳を読み比べてから選ぶことができます。
聖書の言葉をSNSや画像に使ってもいい?
日本聖書協会は、本文を変えずに訳名を明示し、自分の言葉を主にして引用する形であれば、申請なしで使えると案内しています。
一方で、画像に聖書本文だけを載せる使い方は引用と認められないとしているので、使う前に協会の著作権の案内を確認してください。
ことわざになった聖書の言葉は、聖書と同じ意味で使っていい?
日本語のことわざとしての意味と、聖書の本文での意味がずれている場合があるので、場面に合わせて使い分けるのが安心です。
聖書の名言のまとめ
聖書の名言は、書名・章節と、話し手と場面を確かめて読むと、言葉が本来伝えている意味が見えてきます。
よく知られた言葉の多くは山上の説教にあり、前後の節には、その言葉を補うたとえや理由が書かれています。
「天は自ら助くる者を助く」のように聖書にない言葉や、元の聖句を縮めて広まった言葉もあるので、引用するときは本文で確かめてください。
持ち帰りたい一言を選ぶなら、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ人への手紙12章15節・口語訳)です。
気になった言葉は、前後の数節とあわせて読んでみてください。